かながわシルクフェア・シルクウィーク 2017年3月13日(月)〜3月21日(火)
スカーフアレンジ教室
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カイコのマユから作られるシルク かながわの織物を訪ねて〜糸の町・半原〜 多彩なシルク製品
戦前のスカーフの歴史

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(スカーフのはじまり)
 1859(安政6)年、通商条約にもとづき横濱は貿易港として開港された。開港に伴い日本各地の商人、また欧米諸国の商人も横濱に集まった。当時、アジアにおける貿易の覇権をにぎっていたイギリス商館は、横濱居留地一番地(現在の中区山下町一番地)に店を構え、横濱から生糸、茶などの輸出貿易に主力を置いた。
 開港直後、フランスなどで蚕の微粒子病が発生したため生糸が不足したことから、外国商人たちは品質が良く価格も安い日本の生糸に飛びついた。
横濱は生糸市場として世界に名を知られるようになり、1863(文久3)年には輸出額の84%を占め、莫大な外貨をもたらし横濱の繁栄を支えていた。
 開港当時、日本古来の着尺などは諸外国の需要に合わず、繊維製品の輸出はほとんど行われていなかった。その後、政府が産業の奨励と貿易の振興に力を入れ、1873(明治6)年のウィーン万国博覧会に、横濱で桐生や京都産の日本古来の絹織物を横濱在住の外国人相手に商っていた椎野正兵衛商店・伊勢徳商店に出品を勧めた。出品者代表に椎野正兵衛商店が選ばれ、ウィーンに渡航し、オーストリア、ドイツの絹織物羅紗製造工場や加工工場などを見学して帰国。その後、欧州への輸出織物について研究を続けながら、ドイツなどで学んだことをもとに、寝衣や絹羽二重手巾(当時はハンカチのことを手巾と言った。横濱では「てはば」と呼ばれた)の製造、売出しを始めた。
明治初期、外国商館を通じて輸出されていた寝衣、テーブルクロス等の繊維製品はほとんどが白地か色無地(一色で染めた生地)による製品であったが、諸外国との交流が進み、輸出量が増えると共に、柄物の製品も求められるようになった。
1890(明治23)年頃、フランスで羽二重を木版で染めたハンカチが評判となり、木版捺染業者が増えた。捺染の技術が研究、改良され、手工業的で少量生産であったが、1894(明治27)年頃に入ると需要も増加し、輸出量はすばらしい速度で伸びていった。
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(戦前のスカーフの歴史)
 1900(明治33)年頃、輸出絹物商は80軒を数え、そのほとんどが外国人商社であり、日本商人は売込商(売込問屋)として存在していた。
商社は絶対に権力を握っており、売込商は一方的に服従しなければ商売は成立しなかった。
そんな中、同業者組合法が公布され、「横濱輸出ハンカチ製造同業組合」「横濱輸出織物加工同業組合」が組織され、海外に支店や出張所を設ける日本人業者も増えていった。
こうして、織物製品は欧米諸国だけでなく、中南米、南アフリカ、東南アジア方面にも輸出されるようになった。
1914(大正3)年には第一次世界大戦が起こり、ドイツからの染料が入手困難となったため染料の相場は戦前に比べ驚く程の高値を示した。
しかし、フランス、イタリア、スイス等の絹業のほとんどが中絶状態になったため、染色・整理向上は1914〜1919年にかけて増加し、大戦後の恐慌の影響を受けはしたものの、その後捺染業界は益々活況を呈していった。しかし、1923(大正12)年に発生した関東大震災の打撃はあまりにも大きかった。外交商館、売込商の多くが神戸に移転してしまった。横濱に残った輸出絹織物業者は「横濱輸出絹業復興会」を結成し、共同店舗の建設、外国商館の復帰運動を展開した。
震災の混乱もほぼおさまった1927(昭和2)年、横濱の貿易業者は、インド商社以外の外国商館が復帰しないまま、業務を再開していた。「横濱輸出織物染色工業組合」を組織し、染色改善に努めた。
アメリカからスクリーン捺染技術を導入したことから横濱の手捺染業は次第に近代化への道を進むことになった。
1930(昭和5)年頃からハンカチの寸法を大きくした“スカーフ”という名称の商品がイギリスに輸出され始めた。その後、これはヨーロッパを中心に急速に売れ行きが伸び、これに伴い横濱でも多くの業者がスカーフを手掛けるようになり、横濱の特産となった。
スカーフの発祥と共に捺染工場は増加した。
しかし、1937(昭和12)年の日中戦争、1941(昭和16)年から始まった太平洋戦争によって、数年で横濱の全ての工場は壊滅状態となった。
戦後のスカーフの歴史
資料画像 (戦後のスカーフの歴史)
 1947(昭和22)年の貿易再開を機に、横濱スカーフは戦前に実績のあった業者の手によって輸出の挽回の努力がなされた、ところが、アメリカ市場では、ナイロン・レーヨンが普及し生糸の販売は困難になり、戦前の輸出量には及ばなかった。
そこで新しく注目されたのがスカーフなどの絹織物である。
1952(昭和27)年にラジオドラマ「君の名は」が大ヒットし、ヒロインの「真知子巻き」でロングスカーフが大流行した。これが国内スカーフ需要の伸びるきっかけであったという。
1954(昭和29)年、アメリカで可燃物織物法が施行され、目附けが四匁以下で薄く軽い羽二重が輸出不可能となったため、繊維業界では、新素材の開発が促進され、アセテート、ナイロン、ポリエステルなどの合成繊維のスカーフが作られるようになった。
1959(昭和34)年頃からの高度経済成長に伴って時代は大きく進歩した。捺染業界も近代化、合理化が必要とされ、自動スクリーン捺染機が導入された。自動スクリーン捺染機は、大量生産が可能なので、婦人服地などにも使用された。
スカーフは、輸出先により、色、柄、品質もまちまちであり、先進国向けのものは注文数こそ少ないが高級なもの、中近東・アフリカ向けは大量生産などと、それぞれに特徴があった。一方国内では、昭和30年代からスカーフの着用が次第に浸透、昭和40年代からはファッション化が一段と進み、有名デザイナーのサインを入れたものが出回るようになった。服装の高級化・個性化に伴い、スカーフは高級化しファッションの一部となった。
近年、スカーフは、国内生産量の9割近くが横濱に本拠地を置くメーカーによって生産されているという。

近代のスカーフ
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 スカーフは、景気の動向だけでなく、流行の変化にも大きく左右される商品といえる。1985(昭和60)年頃から景気は少しずつ上向き、さらにアメリカでシルクスカーフブームが起こり、国内でもシルクを主体とするスカーフの人気が高まったが、やがてバブルの崩壊、急速な円高の進行によってあっけなく終わり、輸出量は極端に減少してしまった。しかし、横濱スカーフ産業は過去幾たびかの不況の波を乗り越えて発展してきた。
その背後には捺染業界の絶え間ない努力、研究があり、捺染技術の発展、進歩がスカーフ産業を支えてきたとも言える。
平成の大不況に入ったこの時も、染料や糊料などの研究、改良が続けられ、労力の軽減と品質の安定、生産性の向上などを目的に、ハイテク機材を使用した新しい捺染行程の合理化が進められた。
横濱の捺染色技術は、東西の優れた木版技術を取り入れ発展してきた。現在では、近代的なスクリーンプリントとデジタルプリントに転換されている。
制作配信:かながわシルクフェア実行委員会
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