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精進池から少し離れた、芦之湯側に行った国道1号線沿いにある3基の石造五輪塔です。国の重要文化財に指定されています。
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北条氏は、豊臣秀吉との合戦に備え、小田原城とその城下を囲う空堀を造りました。この「小峯御鐘ノ台大堀切」は、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断して構築されました。
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旧東海道をややそれた「平塚の塚緑地」にある、「平塚の碑」です。一説では、ここが「平塚」の地名の由来の場所とされています。言い伝えによると、平政子という方がこの地で亡くなり、その柩を埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らであったことから、里人がそれを「ひらつか」と呼び、これが地名となったといわれています。
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昔車がなかった時代に住んでいた住民が往来していた道です。2~3時間程のハイキングで森林浴を楽しみたい人におすすめです。
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北条氏の四代・氏政と弟の氏照の墓所がある場所には、「幸せの鈴」を手に願掛けをする人が後を絶えません。幸せのパワーに満ちたスポットとして地元に知られています。(写真提供:photolibrary)
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昔から村人から信仰の厚い不動さまであり境内の滝不動は谷津川の水源地となっています。
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モース記念碑は、日本近代動物学発祥に尽力したエドワード・S・モースを記念して建てられた記念碑です。
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藤沢橋交差点の近く、国道467号線沿いの高台にあります。通称は帯解観音と呼ばれています。(写真提供:藤沢市ふじさわ宿交流館)
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高札場とは、幕府や領主による最も基本的な法令を書き記した「札」が掲示された場所で、各宿場のほか村々にも設けられていました。平塚宿の高札場には、隣り合う藤沢宿や大磯宿への公定運賃なども表示されていたといいます。
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ふじさわ宿商店会は、江戸時代に旧東海道の宿場町としてにぎわった藤沢宿周辺に、新たに誕生した商店会です。既存の活動にとらわれない宿場町としての町づくりにも力を入れています。
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平成27年3月に史跡に指定された橘樹官衙遺跡群を保存活用するために整備し、一般開放された緑地です。緑地の地下には、奈良・平安時代の橘樹郡衛に関係する初期正倉跡が保存されています。
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龍源院北側の段丘下から湧き出す湧水。昔から周辺6世帯の井戸水に代わる大切な生活用水とともに、非常用の防火用水としても、昭和31年に水道が引かれるまで利用されてきました。また、大正初期頃から終戦頃までの約30年間、関係者が共同組織をつくり、湧き出し口下の土地45坪程を龍源院から借りて開墾し、わさびの栽培をしていたといわれています。
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源頼朝の妻、北条政子が瀬戸神社の海中に島を築いて創建したと伝えられ、横浜金澤七福神の弁財天が祀られている。シーサイドラインが見える隠れたビュースポットとしても人気。
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「陸軍桟橋(西浦賀みなと緑地)」は、ペリー来航や咸臨丸出帆など歴史の舞台となった浦賀港を一望できる公園です。港の東西を結ぶ渡船の乗り場も近くにあります。
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大正から昭和にかけ歌人・小説家として活躍した岡本かの子を記念し昭和37年に制作された《誇り》の台座には、「この誇りを亡き一平とともにかの子に捧ぐ 太郎」という制作者で長男の岡本太郎の銘が刻まれています。また、かの子の業績を讃える亀井勝一郎の文を川端康成の書によって刻んだ碑もあります。
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江戸時代は文字どおり大きな石橋があり、脇街道の「溝の口・二子宿」として繁栄していました。
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明治時代の小田原出身の詩人、井上康文の「梅」の一節が刻まれた石碑です。
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兄源頼朝の勘気を蒙った義経は、1189年に奥州衣川館で自害しました。首級は腰越で曝されたあと片瀬の浜に捨てられたが、泥にまみれたまま亀に背負われ境川をのぼり藤沢の里にたどり着きました。哀れに思った里人が井戸で首を洗い清め弔うため首塚を作ったと伝えられています。
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江戸赤坂御門を起点として、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道をいいます。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還(五街道以外の支街道で、休泊機能の備わった道)として、「厚木街道」「矢倉沢往還」等とも呼ばれてきました。
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下鶴間ふるさと館には、市指定重要文化財の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されています。母屋は安政3年(1856)に建築されたもので、宿場の商家建築として県内でも数少ない建物です。
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旧東海道沿いの、江戸側の出入り口にあたる「江戸見附」から、京側の「京方見附」の間の約1kmにわたり広がっていた平塚宿。江戸口見附は、明治初期の駐日イタリア公使のバルバラーニ伯爵が母国に持ち帰った写真をもとに復元されました。
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川崎市大山街道ふるさと館では、大山街道や高津地域にかかわる歴史・民俗などに関する資料を展示しています。展示室では企画展(年4~5回)または常設展を開催しています。
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吉野宿(よしのじゅく)は、江戸時代初期に定められた五街道「甲州街道(道中)」の宿場でした。「吉野宿ふじや」は旅籠「藤屋」として営まれていました。現在の建物は、明治29年の大火で焼失後、明治30年頃に建てられたもので、平成26年4月に市登録文化財に登録されました。建物内には、養蚕や炭焼に関する資料などが展示されています。
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当麻は古くからの交通の要所で、昭和橋のたもとには、対岸の依知と結ぶ渡し船がありました。特に大山参りが盛んになってからは、当麻の渡しを利用する人が増え、当麻は宿場としてもにぎわいました。
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丹沢の峠、いより峠にある不動明王は、以前は道標の役割があったと言われています。
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約700年前、鎌倉時代から室町時代前期にかけて数多くの石仏や石塔が造られました。これら石仏・石塔の多くは、中世の地蔵信仰を物語る遺物として国の重要文化財に指定され、また、周辺一帯も同様に国の史跡に指定されています。(写真提供:photolibrary)
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太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、JR二宮駅(当時国鉄)周辺にはP51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。二度と戦争があってはならないと、永遠の平和を願う人々の浄財によって昭和56年(1981年)、二宮駅南口に、この像は建てられました。
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川崎市は、横穴墓(おうけつぼ)の密集地帯です。古墳が主に盛り土によって築造されるのに対して、横穴墓は丘陵の斜面に文字通り、横穴を掘った形態のお墓です。7世紀の飛鳥時代に作られました。現在安全対策のため、横穴墓の中に入れません。
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相模川自然の村公園内にある「相模原市古民家園」には、江戸時代中期に建てられたと推定される「旧青柳寺庫裡」が移築・復原されています。旧青柳寺庫裡は神奈川県指定重要文化財に指定されています(昭和56年7月17日指定)。
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早野にある戒翁寺近くの御堂山(おどやま)に造立されている、土地の人から「殿様の墓」といわれる石造五輪塔(ごりんとう)です。
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かつては排水路を横断するように架かっていた橋ですが、昭和6年頃に水路が埋められたため、現在は親柱だけが交差点脇の歩道に保存されています。
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今から約700年前の鎌倉時代後期に建てられた石造の宝篋印塔で、国の史跡と重要文化財に指定されています。この塔が建てられた精進池(しょうじんがいけ)周辺は、当時京と鎌倉を結ぶ道路の箱根越えのルートであり、厳しい山越えの道と、ところどころで噴煙は噴き出す荒涼たる風景からこのあたりは「地獄」と恐れられ、地蔵信仰の霊地となりました。精進池の周りにある石仏や石塔はほとんどが鎌倉時代後期にこうした地蔵信仰の中から建てられたもので、多くのお地蔵さんに見守られるようにして、多くの旅人が厳しい箱根越えの道を往ったのでしょう。
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鎌倉幕府3代将軍の源実朝は1219年甥の公暁(くぎょう)により暗殺されました。すぐに公暁は三浦氏の家来により討ち取られ、持っていた実朝公の御首は、その家来により秦野のこの地に密かに運ばれ、埋葬されたといわれています。塚の近くには歌人として有名だった実朝の歌碑があり、毎年11月23日には「実朝まつり」が開催され、近くの金剛寺により法要が行われています。
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かつての炭問屋、藤屋の跡地です。江戸時代、周辺農家で焼かれた炭は黒川炭と呼ばれ、江戸に出荷されていました。当時、木炭の輸送は水上輸送が主流でしたが、黒川炭は江戸に近いため、仲買問屋を通じて、江戸に陸送されていました。
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この橋の袂のある石碑の向かいより、大山道に入ります。
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登録有形文化財に登録されている戦前の藤沢を代表する呉服商です。
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初代歌川広重によって描かれた「東海道五拾三次 大磯・虎ヶ雨」の浮世絵はこのあたりの眺めと言われ、悲恋の涙を表す雨と松並木が描かれています。
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町の天然記念物に指定されているヤマザクラです。源頼朝が植えたという伝承があるとされています。
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松田町の地域活性化や観光復興を目指し、江戸時代の農村改革の指導者として活躍した二宮尊徳の碑が設置されました。市民の憩いの場として賑わっています。