横浜金沢と能【歴旅コラム】
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横浜金沢と能
鎌倉に幕府が開かれた時から、横浜金沢は鎌倉の外港として重宝されました。六浦湊(三艘)には、国内だけでなく海外からの輸入品(経典、書籍、美術品など)が多数荷揚げされました。称名寺に別邸を設けた金沢北条氏は、それらを大切に保管し、文庫(ふみくら:図書館や資料館のようなもの)を構成していきました。横浜金沢は、それら文化の入り口となっただけでなく、風光明媚な場所として有名でした。鎌倉幕府滅亡後もそれぞれの幕府から助成されたのは、称名寺に金沢北条氏が集めた文化財が数多く残されていたからでしょう(横浜市内で唯一国宝を所蔵している)。
能が大成したのは室町時代だと言われています。その頃、称名寺の塔頭の一つである大宝院(廃院)で催された猿楽についての文書が県立金沢文庫に残されています。中世において、横浜金沢は、鎌倉(幕府・文化)の一部であったため、能楽の舞台となった所があります。
能が大成したのは室町時代だと言われています。その頃、称名寺の塔頭の一つである大宝院(廃院)で催された猿楽についての文書が県立金沢文庫に残されています。中世において、横浜金沢は、鎌倉(幕府・文化)の一部であったため、能楽の舞台となった所があります。
称名寺阿字ヶ池とイチョウ
称名寺は、真言律宗(本山は、大和西大寺)の寺院で、本尊は弥勒菩薩です。金沢北条氏の初代・北条実時が六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂から発展したと伝えられています。実時の孫・貞顕の時代には三重の塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期を迎えました。称名寺の庭園は、阿字ヶ池を中心とした「浄土庭園」です。池のほとりに、「青葉の楓」が植えられています。年中紅葉しないというこの楓を題材とした能の演目が『六浦(むつら)』です。『六浦』は、冷泉為相が詠んだ和歌を題材としています。何故紅葉しなくなったのか、楓の精が語り、称名寺庭園の四季折々の美しさを歌と舞で表現します。静かで優雅な演目です。
かつて瀬戸神社の前は瀬戸の内海へ通じる狭い水路の海峡でした。この狭い水路に潮の満ち引きで、渦を巻いて海水が出入りしていました。このような場所が「瀬戸」と呼ばれます。源頼朝が鎌倉幕府を開いた時に、信仰していた「伊豆三島明神」(三島大社)の分霊を聖地であるこの地に祀り、篤く信仰しました。以降、この辺りは交通の要所として栄えました。この瀬戸神社を舞台としている演目が『放下僧(ほうかそう・ほうかぞう)』です。
『放下僧』は、仇討ちの物語です。人々の往来が盛んであった瀬戸神社の境内で、兄弟が鞨鼓を打ち鳴らし、「小謡」を謡い舞う姿は躍動感に溢れています。
『放下僧』は、仇討ちの物語です。人々の往来が盛んであった瀬戸神社の境内で、兄弟が鞨鼓を打ち鳴らし、「小謡」を謡い舞う姿は躍動感に溢れています。
海の公園は、昭和63年(1998年)に金沢地先埋立事業の一環として整備された横浜で唯一の海水浴場をもつ公園です。歌川広重が描いた『金澤八景』の一つに「乙舳帰帆(おっとものきはん)」があります。松並木と砂浜の先に、漁を終えて帰る帆掛け舟が描かれています。この砂浜を模して海の公園は造られています。この美しい砂浜で陽気な妖怪が舞うのが『金沢猩々(かねさわしょうじょう)』です。
『金沢猩々』は、海の公園に見られる白砂青松の浜辺に現れる猩々が、人々と酒を酌み交わし、友情を深め海の豊かさと平和な暮らしを寿ぐという演目です。
記事提供:NPO法人 横濱金澤シティガイド協会
(記事公開日:2020/11/17)