森戸大明神
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「鎌倉殿の13人」と葉山町
葉山町は昔も今も、海と山と静かな環境が売りの地域です。葉山と「鎌倉殿の13人」は直接には関係が少ないといえますが、「鎌倉殿」や「13人」にまつわる伝承が多く残されています。三浦義澄と一族が「石橋山の合戦」に加わろうと、鐙摺(あぶずり)の小浜より船出しようとした際に、悪天候で海路を断念し陸路をとった。酒匂川で足止めされ、頼朝の敗戦を聞き引き返す途中、畠山重忠軍と遭遇し誤解から合戦となりました。義澄が小浜近くの小高い丸い小山に旗を立て気勢をあげたことから、この山は旗立山と呼ばれるようになったといわれています。この山の頂上には伊豆での頼朝の監視役伊東祐親のものとされる供養塔があります。祐親は「富士川の戦い」の前日捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられていました。
鐙摺の地名はこの地にあった義澄の弟・大多和義久の別館に頼朝が訪れた際、この地の道が狭く一行の馬の鐙が摺れた事から呼ばれようになったそうです。頼朝の愛妾亀の前が頼朝夫人政子の嫉妬よりいろいろいきさつが有り追われ逃げ込んだという話が伝わる舞台が義久の館です。
鐙摺から南の森戸川の河口に葉山の鎮守、森戸大明神があります。頼朝が三島大社の御神霊を勧請したと伝えられています。この地は富士山を望む大変景色の良いところで、社殿の背後には、鎌倉期には広い原であったといわれ、頼朝の別墅(別荘)があったことより御殿原とされ、境内に金子堅太郎筆の碑があります。歴代の鎌倉殿や御家人が度々訪れ流鏑馬・笠懸・相撲などを行ったことが『吾妻鏡』に記されています。海辺の岩の上に生えた松に頼朝が目を留め尋ねた処、その場にいた和田義盛が「千貫の値ありとて千貫松と呼び候」と答えたと伝えられる松が何代目か不明ですが植えられています。
鐙摺から南の森戸川の河口に葉山の鎮守、森戸大明神があります。頼朝が三島大社の御神霊を勧請したと伝えられています。この地は富士山を望む大変景色の良いところで、社殿の背後には、鎌倉期には広い原であったといわれ、頼朝の別墅(別荘)があったことより御殿原とされ、境内に金子堅太郎筆の碑があります。歴代の鎌倉殿や御家人が度々訪れ流鏑馬・笠懸・相撲などを行ったことが『吾妻鏡』に記されています。海辺の岩の上に生えた松に頼朝が目を留め尋ねた処、その場にいた和田義盛が「千貫の値ありとて千貫松と呼び候」と答えたと伝えられる松が何代目か不明ですが植えられています。
実朝が暗殺されたのち源氏の将軍は絶えます。そのため京都の九条家から4代目の鎌倉殿(頼経)となる三寅を迎え、風習や行事が貴族化され鎌倉でも取り入れられます。「七瀬の祓」もその一つです。この七瀬のなかに杜戸(森戸)があります。森戸のどこで行われたかは不明ですが森戸川河口あたりと思われ、「みそぎ橋」という橋があります。頼経も北条泰時、三浦義村を連れて森戸を訪れ、その際葉山の長柄地区に館をかまえた長江氏から食事を用意されことが『吾妻鏡』に記されています。このほか堀内地区には今は廃寺となった慶増院があったそうです。建立したのは二階堂行政の孫の行盛とされており、境内には、二階堂行然(行盛の法名)の墓と伝わる五輪塔(重要文化財。現在逗子の東昌寺)がありました。このように葉山町は海・山・静かな環境の観光だけではなく、歴史好きの方々には、興味ある話が伝わる地区でもあります。新型コロナウイルス感染症が収束したら、歴史好きの方も「いざ葉山へ」。
記事提供:葉山町文化財研究会
(記事公開日:2022/3/18)