蒲ザクラと源範頼 海蔵山太寧寺【花のコラム】
金沢区片吹の谷戸にひっそりと佇む「海蔵山太寧寺(かいぞうざんたいねいじ)」。元々は、関東学院大学付属六浦小学校辺りにありました。
■紹介するスポット
海蔵山太寧寺
※本コラムは、かながわガイド協議会構成団体である「NPO法人横濱金澤シティガイド協会」より寄稿いただきました。
関東学院構内に源範頼の別荘があった
かつて、関東学院大学構内には約3万坪の敷地を有する源範頼(蒲冠者)の別荘があったと伝わります。その別邸の敷地内に持仏堂があり、薬師寺と呼ばれていました。しかしながら、範頼は兄・源頼朝に謀反を疑われ、伊豆の修善寺に配流されてしまいました。その後、梶原親子の急襲により修善寺・信功院で自害したと言われていますが、範頼の生死については様々な伝説が残されています。密かに修善寺を抜け出し、追浜(横須賀市)まで逃げ延びて自身の持仏堂である薬師寺で自害した、石戸宿(埼玉県)まで逃げ延びて生涯を全うした、越後の方面まで逃げていった等々、真偽のほどは分かりません。
建仁寺の千光国師・明菴栄西が太寧寺を建立
時が立ち、建仁寺の千光国師・明菴栄西が薬師寺跡を訪ねました。そして、範頼の霊を弔うために範頼の戒名・太寧寺殿(たいねいじでん)にちなみ臨済宗太寧寺を建立しました。この折、由緒ある薬師寺の号が廃されることとなったため、遍照房(称名寺境内にあった真言宗の寺)に範頼の位牌、念持仏と伝えられる薬師如来立像、仏具等を継承させ、遍照房は薬王寺と改名し現地に移転したと言われています。
太寧寺の立ち退き
昭和になって、それまで穏やかに過ごしていた金沢の民は、戦火に翻弄されることになります。追浜に旧日本海軍の飛行場が造られることになり、金沢は旧日本軍の工廠(旧陸海軍に直属し、武器・弾薬など軍需品を製造した工場)の支廠や技術学校などが造られました。その為に、昭和18年(1943)、太寧寺は立ち退きを余儀なくされ、現地に遷りました。忙しい大人に変わり、子供達がリヤカーで範頼の供養塔などの石塔を運んだそうです。
「石戸蒲ザクラ(いしとかばざくら)」を太寧寺に3本植えた
20年ほど前の事、有志の方が石戸宿東光寺境内(埼玉県北本市)に残る天然記念物「石戸蒲ザクラ」から枝分けされた桜を縁の太寧寺に3本植えました。運良く2本は今も残り、毎年可憐な花を咲かせて、古を感じさせてくれます。