相模国分寺跡の一画に、渡辺崋山の見た「柴胡の原」を再現し偲ぶ【花のコラム】
かつて相模原を中心に座間丘陵一帯は、柴胡(さいこ)の繁茂が旺盛で、「柴胡の原」と呼ばれていました。今は、道路や鉄道が敷設され、沿線は大規模な開発により、残されたわずかな野山ですらも自生する柴胡の姿を見ることはできません。
■紹介するスポット
相模国分寺跡
※本コラムは、かながわガイド協議会構成団体である「NPO法人海老名ガイド協会」より寄稿いただきました。
北部公園と目久尻川沿いの花めぐり
海老名市の東側を流れる目久尻川は、小高い山や丘に囲まれた座間栗原から、何箇所もの湧水を集めて、約20km下流で相模川に合流しています。柏ケ谷地区にある川沿いの北部公園を流れる水は透明で川底まで見え、鯉や鮎が群れています。3月は、両岸のソメイヨシノが桜のトンネルを作り、6月には紫陽花が散策道を飾り賑わっています。公園を出て左岸の土手には、ヒガンバナの群生が見事でしたが、土手の嵩上げ河川改修により消滅しました。さらに下流の伊勢下村橋から目久尻橋の右岸の土手には、5月からオオキンケイギクが群生し、黄色のベルトが一面を覆いますが、特定外来生物として伐採駆除され、早々に姿を消します。
渡辺崋山の青山通り大山街道を相州厚木への旅
江戸時代になり大山詣が盛んになると、海老名市内を通過する大山道が何本も整備されました。天保2年(1831年)9月20日、渡辺崋山は弟子の高木悟庵を伴って、江戸麹町田原藩上屋敷を出発し、青山通り大山街道を厚木に向かいました。2日後、相州に入り大塚宿を過ぎて途中から、小園村に立寄りお銀さまと涙の再会を果たした後、大山街道に戻り厚木の渡しで舟に乗り、厚木宿に到着しました。渡辺崋山は、旅の見聞を文章と挿絵で綴った「游相日記」を記録し、相州について“鶴間原に出る。この原、縦十三里、横一里、柴胡多し、よって柴胡の原とも呼ぶ、諸山いよいよ近し”と記され、柴胡草の繁茂が旺盛であったことがうかがえますが、もはや、野山のどこにも黄色に咲く柴胡の自生を見ることはできません。
「柴胡の原」の再現を目指す
NPO法人海老名ガイド協会の前身は、海老名史跡ガイドボランティアの会で、平成16(2005)年4月に創立。市の教育委員会とタイアップして、史跡、文化財のガイドを行い、海老名の魅力づくりに寄与するためスタートしました。会員の研修の過程で「游相日記」の記述にある“柴胡の原”を現代に蘇らせる活動として、柴胡の栽培に挑戦することになります。自然の柴胡は絶滅危惧種で、種や苗の入手は困難でしたが、幸運にも平成18年(2006年)、ツムラ中央研究所から種と苗をいただき、渡辺崋山が通った青山通大山道と接した相模国分寺跡の一画の花壇にて栽培を開始しました。会員全員でミシマ柴胡の栽培に取り組み、秋には小さく可愛らしい黄色い花を咲かせ、11月に収穫した種を蒔き、柴胡を絶やすことなく今日まで受け継がれています。