金沢区の花「ボタン」と泥亀新田【花のコラム】
金沢区の花は「ボタン」、木は「ヤマザクラ」です。
平成5年(1993年)、区制45周年を記念して区民による投票で定められました。
■紹介するスポット
龍華寺と旧伊藤博文金沢別邸の「ボタン祭り」
※本コラムは、かながわガイド協議会構成団体である「NPO法人 横濱金澤シティガイド協会」より寄稿いただきました。
金沢区の中心街は、かつては海だった。
金沢区総合庁舎などの官公庁舎や大型商業施設があり、国道16号線が通る金沢区の中心街は、かつて「内川入江」「瀬戸の内海」などと呼ばれた海が広がり、『金沢八景』と讃えられた絶景がありました。
祐伯の号に因んで「泥亀新田」
江戸湯島聖堂の儒官だった永島祐伯(号:泥亀)は金沢区に移住した寛文8年(1668年)から入江の一部の埋め立てをはじめ、完成した新田は号に因んで「泥亀新田」と名付けられました。
その後、天明6年(1786年)には「内川入江」全域が埋め立てられ、「金沢入江新田」と命名されます。
これらの新田は津波や洪水等により荒廃と復旧が繰り返され、永島家代々約180年の苦闘の末、嘉永2年(1849年)に完成しました。
明治以降、走川・平潟・入江の三新田を合わせて「泥亀新田」と呼ばれるようになり、「泥亀」という町名が今に残っています。
その後、天明6年(1786年)には「内川入江」全域が埋め立てられ、「金沢入江新田」と命名されます。
これらの新田は津波や洪水等により荒廃と復旧が繰り返され、永島家代々約180年の苦闘の末、嘉永2年(1849年)に完成しました。
明治以降、走川・平潟・入江の三新田を合わせて「泥亀新田」と呼ばれるようになり、「泥亀」という町名が今に残っています。
祐伯が儒官を辞す時に贈られた「ボタン」
永島祐伯は、儒官を辞す時に「ボタン」を贈られたと言われています。
当時、「ボタン」は原産国の中国で「花の王」と称される程の貴重で高価なものでした。
永島家では野島にあった邸宅内で「ボタン」を大事に育て、株も増やしていきました。
江戸時代から永島邸の「ボタン園」は有名でしたが、開花期には庭を開放して、地元の方々を招待していたそうです。
当時、「ボタン」は原産国の中国で「花の王」と称される程の貴重で高価なものでした。
永島家では野島にあった邸宅内で「ボタン」を大事に育て、株も増やしていきました。
江戸時代から永島邸の「ボタン園」は有名でしたが、開花期には庭を開放して、地元の方々を招待していたそうです。
大橋新太郎が「ボタン園」を引き継ぐ
昭和初期、永島家の土地を買収した大橋新太郎(博文館社主)は野島の永島邸の「ボタン園」を引き継ぎ、更に増やして開花期には地元の人々に開放していました。
このように、多くの金沢区民の記憶の中にある「ボタン」が金沢区の花として選ばれたのは当然だと言えるでしょう。
このように、多くの金沢区民の記憶の中にある「ボタン」が金沢区の花として選ばれたのは当然だと言えるでしょう。
龍華寺・旧伊藤博文金沢別邸の「ボタンまつり」
大正になって「ボタン」の新しい栽培方法が取られるようになり、身近に植栽することが出来るようになりましたが、やはり美しい花を毎年観賞するためには手入れが大切です。
金沢区では公園や寺院などに多く植えられていますが、特に龍華寺と旧伊藤博文金沢別邸の「ボタンまつり」は見応えがあります。
金沢区では公園や寺院などに多く植えられていますが、特に龍華寺と旧伊藤博文金沢別邸の「ボタンまつり」は見応えがあります。