【鎌倉殿×13人の御家人たち 】「ゆかりの地」めぐり
神奈川県は2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の舞台です。
ゆかりの地や人物を通して鎌倉時代に触れてみてください。
「ゆかりの人物」紹介
初期の鎌倉幕府を支えた13人の御家人をはじめ大河ドラマにゆかりのある人物たちをご紹介します。
それぞれどんな人物だったのか関係図と合わせて確認してみましょう。
それぞれどんな人物だったのか関係図と合わせて確認してみましょう。
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北条 義時頼朝の正室・北条政子の弟であり、北条時政の次男。「十三人の合議制」構成員に選ばれ、初代執権・時政を隠退させると、二代執権として姉の政子と幕府の政治の実権を握ります。1219年、鎌倉幕府の初代から3代にわたる源氏将軍が途絶えると、鎌倉幕府の実質的な支配者となりました。その後、幕府と朝廷の対立が激化し、1221年に後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となりましたが、幕府軍は朝廷を制圧。義時は幕府を勝利に導きました。その3年後に62歳で亡くなると、墓が頼朝の墓所である法華堂の隣に建てられました。
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源 頼朝鎌倉幕府の初代将軍。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流されます。同地で北条時政・義時らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧。平家を滅ぼし、さらに奥州合戦で藤原氏を滅ぼします。1192年には征夷大将軍に任じられました。これら一連の活躍により、京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国を拠点として全国の武士を支配する政権(鎌倉幕府)が樹立されました。1199年に死去。落馬が原因といわれていますが定かではありません。頼朝の死後、その後継をめぐる争いによって頼朝の子孫は断絶し、その後は頼朝の妻・政子を補佐した義時とその嫡流(得宗家)が鎌倉幕府を掌握します。
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和田 義盛三浦義澄の甥で、相模国の三浦郡和田を本拠地とする三浦氏の一族として頼朝の挙兵に参加。頼朝が鎌倉を拠点に定めると、初代侍所別当(長官)に任じられました。治承・寿永の乱では源範頼(頼朝の異母弟)の軍奉行となり、西国へ逃れようとする平家の背後を遮断しました。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てます。頼朝の死後、梶原景時の変では中心的な役割を果たし、その他の御家人の乱では北条氏に与したものの、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡しました(和田合戦)。