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【鎌倉殿×13人の御家人たち】「ゆかりの人物」紹介 

【鎌倉殿×13人の御家人たち】「ゆかりの人物」紹介 

INDEX

ゆかりの人物 関係図

権力争いの末に執権の座を手に入れた北条義時ほか鎌倉時代を動かした人物の関係図です。北条氏、源氏、比企氏が中心となっていました。
主要な登場人物の13人とは、
二代・源頼家時代にとられた政策
「十三人の合議制」の構成員のことです。
それぞれどんな人物だったのでしょうか。

北条 義時(ほうじょうよしとき) 1163~1224年

頼朝の正室・北条政子の弟であり、北条時政の次男。「十三人の合議制」構成員に選ばれ、初代執権・時政を隠退させると、二代執権として姉の政子と幕府の政治の実権を握ります。1219年、鎌倉幕府の初代から3代にわたる源氏将軍が途絶えると、鎌倉幕府の実質的な支配者となりました。その後、幕府と朝廷の対立が激化し、1221年に後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となりましたが、幕府軍は朝廷を制圧。義時は幕府を勝利に導きました。その3年後に62歳で亡くなると、墓が頼朝の墓所である法華堂の隣に建てられました。

略歴
1163年 0歳 北条義時誕生
1180年 17歳 源頼朝挙兵に父時政と共に従う
1189年 26歳 奥州合戦に参加した他、頼朝上洛に随行
1199年 36歳 頼朝が死去し、後継者の頼家を補佐するために十三人の合議制に加わる
1205年 42歳 父時政と対立し、時政を追放
1219年 56歳 3代目将軍実朝が暗殺される
1221年 58歳  承久の乱で後鳥羽上皇に勝利する
1223年 62歳 死去

大江 広元(おおえのひろもと) 1148~1225年

朝廷に仕える下級貴族で実務官人としてキャリアを重ねていましたが、源頼朝が挙兵すると鎌倉に下向し側近となり、鎌倉幕府創設に貢献した文士御家人です。戦地には赴かず、京都との交渉や鎌倉幕府の整備に活躍し、政務処理を行う公文所や政所(まんどころ)が設置されると、その別当(長官)となりました。頼朝の死後は頼家にも側近として仕えますが、有力御家人らが対立するなか、北条氏に協力する立場をとります。実朝の代になると北条氏との協調関係を保ち、実朝の政治を補佐するとともに、和歌などの文化的な活動も支えました。

中原 親能(なかはらのちかよし)1143~1209年

出自については諸説ありますが、弟・大江広元と同じく、京都の下級貴族・中原広季(ひろすえ)の養子であったとされています。幼少期を相模国で過ごしたため流人時代の頼朝と知り合いで、京都との人脈を活かして幕府の対朝廷交渉で大きな功績を果たしました。妻が頼朝と政子の娘・三幡(さんまん)の乳母で自身も目をかけていましたが、三幡を天皇に入内させる計画が進められている中で頼朝が亡くなり、その半年後に三幡も14歳の若さで世を去ります。親能は出家し、自らの屋敷があった亀谷(かめがやつ)の堂の傍らに葬ったと伝わっています。

安達 盛長(あだちもりなが)1135~1200年

平安時代末期から鎌倉時代初期に頼朝を支えた御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖で、頼朝の流人時代からの側近です。藤九郎と称し、頼朝の挙兵にあたっては相模国(今の神奈川県)や下総国(今の千葉県)の武士たちのもとを訪れて参加を呼び掛けました。無量寺谷という谷の入り口付近にあったと考えられる盛長の邸宅には頼朝も度々訪れていて、幕府成立後も頼朝に目を掛けられていました。頼朝の死により出家し、新しい鎌倉殿である頼家を支える「十三人の合議制」の構成員にも選ばれましたが、1200年に頼朝の後を追うかのように亡くなりました。

和田 義盛(わだよしもり)1147~1213年

三浦義澄の甥で、相模国の三浦郡和田を本拠地とする三浦氏の一族として頼朝の挙兵に参加。頼朝が鎌倉を拠点に定めると、初代侍所別当(長官)に任じられました。治承・寿永の乱では源範頼(頼朝の異母弟)の軍奉行となり、西国へ逃れようとする平家の背後を遮断しました。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てます。頼朝の死後、梶原景時の変では中心的な役割を果たし、その他の御家人の乱では北条氏に与したものの、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡しました(和田合戦)。

三善 康信(みよしのやすのぶ) 1140~1221年

平安時代末期から鎌倉時代初期の下級貴族で、鎌倉幕府の初代問注所執事。京都の下級文人貴族・三善氏の生まれで、頼朝挙兵以前は京都でキャリアを積んでいました。叔母が頼朝の乳母であった縁から、流人時代の頼朝に使者を送り京都の情勢を伝えていました。以仁王(もちひとおう)の敗走と源氏追討の命令が出ていることを頼朝に伝えたのも康信で、奥州に逃げるよう助言しています。鎌倉に下向してからは京都でのキャリアを活かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わります。承久の乱が起こると積極的な攻勢を主張する大江広元の意見を後押しし、勝利に貢献しました。

三浦 義澄(みうらよしずみ) 1127~1200年

相模国の三浦郡を本拠とした在庁官人で、桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族。頼朝が挙兵すると三浦一族は石橋山に向かいましたが、川の増水に阻まれ合流できず、武蔵国(今の東京都、埼玉県及び神奈川県の一部)の武士・畠山重忠(のちに頼朝に臣従)に遭遇し合戦に。さらに後日、平家の軍勢が三浦氏の本拠地・衣笠城に攻め入ると、老齢の父・義明は頼朝への加勢を託して自害しました。一方、義澄ら一族は海上へと逃れ、石橋山の合戦で安房国に敗走した頼朝を助けました。義澄の死後、息子の義村は北条氏に協力しながら、その勢力を強めていきました。

梶原 景時(かじわらかげとき) 1140?~1200年

鎌倉の梶原を本拠とした武士で、石橋山の戦いで頼朝を救ったことから重用され、侍所所司、厩別当に。平家追討の際には義経のもとで侍大将として出陣し、朝廷との連絡・調整役もつとめました。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されています。義経と対立した人物として知られていますが、頼朝の信頼は厚く、その側近として権勢を振るいました。頼朝の死後、頼家に対して結城朝光が異心を抱いていると告げ口したことから、御家人らの弾劾により失脚、追放されて一族とともに滅ぼされてしまいます(梶原景時の変)。

比企 能員(ひきよしかず) ?~1203年

頼朝の乳母である比企尼の養子となった縁で、頼朝の挙兵に従い信任を得ます。頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となって息子・一幡を産むと権勢を強めました。一方で頼家は、息子・一幡と弟・千幡(のちの実朝)に、頼家が就いていた役職などを分割譲与することを定めた祖父・北条時政の追討を能員に相談しますが、時政は能員を自邸へ招き殺害。比企一族は北条義時らの軍に攻め込まれ、滅亡しました(比企の乱)。なお、大変美しいと評判であった義時の妻・姫の前は能員の姪にあたり、この乱を期に義時と離別したと考えられています。

北条 時政(ほうじょうときまさ) 1138~1215年

北条政子、義時の父で鎌倉幕府の初代執権。娘の政子が頼朝と結婚したことによってその後援者となり、挙兵した頼朝を一族挙げて頼朝を支えました。頼朝と弟・義経が対立すると、時政は頼朝の代官として京都へ上り、朝廷との交渉や京都の治安維持にあたります。頼朝が亡くなると、頼家の妻・比企氏との間に確執が生まれ、能員を自邸に招き殺害し比企一族を滅亡させ、実朝を鎌倉殿に立てました。その後は政子・義時と対立して失脚、出家(牧氏の変)し、退いた伊豆で10年を過ごした後、亡くなりました。

二階堂 行政(にかいどうゆきまさ) 生没年不詳

鎌倉幕府政所令(別当)、代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。行政と頼朝は母方を同じ熱田大宮司家とし、その縁で頼朝が行政に声をかけ、鎌倉に下向したと考えられています。鎌倉に下る以前は京都でキャリアを積んでおり、その経験から、鎌倉では公文所の設置や寺社の差配、幕府の財政などの業務に携わりました。政所が設置されると、長官・大江広元のもとで、実務能力を発揮していたと考えられています。頼朝の死後は頼家を支える「十三人の合議制」の構成員に選ばれましたが、これを最後に鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』から姿を消しています。

足立 遠元(あだちとおもと) 生没年不詳

武蔵国足立郡(現東京都足立区から埼玉県北足立郡)を本拠とする足立氏の出身で、頼朝挙兵以前から源氏の家人であったと考えられています。武蔵国内の武士たちは平家と強く結びついていましたが、石橋山の合戦で敗走した頼朝が安房国・上総国・下総国をまわって武蔵国へと入ると、事前に頼朝の命を受けていた遠元は、頼朝軍を迎えにあがりました。武士として活躍する一方で京都との縁もあり、文筆に長けた人物で、文書の保管や政務の処理などを行う公文所が開設されると、中原親能や二階堂行政などと共にそこでも能力を発揮しました。

八田 知家(はったともいえ) 1142~1218年

常陸国新治郡八田(今の茨城県筑西市八田)を本拠とする武士で、兄妹には平家や院に仕え京都で活躍していた宇都宮朝綱や、頼朝の乳母をつとめた寒川尼がいます。一族は京都との人脈を持ち、教養を備えていたと考えられます。兄・朝綱に先んじて頼朝のもとに馳せ参じ、重用されました。平泉藤原氏との戦いでは東海道大将軍の一人として活躍します。知家の屋敷は大倉幕府の南御門付近にあり、京都からの使者や鎌倉殿の滞在場所としても使われていました。知家の嫡男・知重は小田氏を名のり、常陸国の守護職や所領を持ち、鎌倉時代を通じて繁栄しました。

源 頼朝(みなもとのよりとも) 1147~1199年

鎌倉幕府の初代将軍。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流されます。同地で北条時政・義時らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧。平家を滅ぼし、さらに奥州合戦で藤原氏を滅ぼします。1192年には征夷大将軍に任じられました。これら一連の活躍により、京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国を拠点として全国の武士を支配する政権(鎌倉幕府)が樹立されました。1199年に死去。落馬が原因といわれていますが定かではありません。頼朝の死後、その後継をめぐる争いによって頼朝の子孫は断絶し、その後は頼朝の妻・政子を補佐した義時とその嫡流(得宗家)が鎌倉幕府を掌握します。

源 頼家(みなもとのよりいえ) 1182~1204年

頼朝の嫡男で母は北条政子。頼朝の急死により18歳で家督を相続し、第2代将軍となります。ただ、若年の頼家による独裁的判断が御家人たちの反発を招いたとされます。「十三人の合議制」がしかれて頼家の独断は抑えられたとされていますが、これは鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』の記述でしか確認できていません。頼家は合議制成立の3年後に重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡。頼家は将軍職を剥奪されて修禅寺に幽閉された後、1204年に暗殺されました。

源 実朝(みなもとのさねとも) 1192~1219年

鎌倉幕府を開いた頼朝と政子の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就きます。幕府の政治は、はじめは執権を務める北条氏などが主に執りましたが、成長するにつれ将軍である実朝も関与を深めていきました。官位の昇進も早く、武士として初めて右大臣に任じられますが、1219年、鶴岡八幡宮で頼家の子・公暁に暗殺されました。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶します。歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれています。家集として『金槐和歌集』があり、小倉百人一首では鎌倉右大臣とされています。

北条 政子(ほうじょうまさこ) 1157~1225年

頼朝の妻で北条時政の長女であり、北条義時の姉。伊豆国へ配流された頼朝と結婚し、鎌倉では御台所として頼朝を支えました。子で二代将軍頼家、三代将軍実朝が相次いで暗殺されると、四代将軍として京都から迎えられた九条頼経の後見となり、尼将軍と称されました。1225年に死去した政子は、勝長寿院で荼毘に付されました。

北条 泰時(ほうじょうやすとき) 1183~1242年

北条義時の長男で、鎌倉幕府第三代執権。承久の乱では陣頭指揮に立って幕府の勝利に貢献しました。政子から義時の後継者に指名され、連署や評定衆の設置を行い、武家の法典「御成敗式目(貞永式目)」を制定し、北条執権体制の基礎を固めました。一方で、和賀江嶋を築港し、巨福呂坂や朝夷奈切通を開きました。頼朝以来の将軍御所を大倉から宇津宮辻子に移し、さらに若宮大路に移したのも泰時です。

北条 宗時(ほうじょうむねとき) ?~1180年

北条時政の息子で義時や政子の兄。源頼朝と政子が結婚したことから、1180年に源頼朝が挙兵すると父や弟とともに加わりました。伊豆国目代・山木兼隆の屋敷を襲撃するときに先導役を務め、これを討ち取ったことで頼朝軍は初戦で勝利を収めます。その後、頼朝軍は大庭景親率いる平家軍と戦いますが多勢に無勢で敗北。宗時は時政や義時と別れて山を下りましたが、伊豆国平井郷の早川付近で平家方の伊藤祐親の軍勢に囲まれて討ち取られました。生年を含めて不明な点が多く、実は政子が姉か妹かも明らかになっていません。

源 義経(みなもとのよしつね) 1159~1189年

源義朝の9男で源頼朝の異母弟。幼名は牛若丸で、1174年に奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せたとされます。そして、1180年に挙兵した頼朝に黄瀬川で合流しました。兄の範頼とともに平家追討を指揮して1184年に木曽義仲を討ち、さらに翌年には平家を滅亡させるなど大きな勲功をあげましたが、その後は頼朝と対立して逃亡生活を送ることになりました。1187年に再び藤原秀衡を頼りますが、秀衡の死後にその息子・泰衡に襲撃され衣川館で自害、31歳という若さでした。義経の生涯は不明な点も多く、義経伝説が生まれ、歌舞伎など多くの芸能の題材にもなっています。

大姫(おおひめ) 1178年~1197年

源頼朝と北条政子の間に生まれた長女。1183年、木曽義仲の長男・義高(当時11歳)が人質として頼朝のもとへ送られ、大姫はその許嫁となりますが、わずか1年で頼朝と義仲の関係が破綻。義仲は範頼・義経らによって滅ぼされてしまい、さらに義高も仇討ちを恐れた頼朝により討ち取られてしまいました。大姫は悲しみのあまり病身となり、一生をほぼ病床で過ごすことになりました。両親が望む頼朝の甥・一条高能との縁談も拒否し、後鳥羽天皇の後宮に入る話も成立せずに終わります。そして1197年、19歳でこの世を去りました。

阿波局(あわのつぼね) ?~1227年

北条時政の娘で政子と義時の妹。源頼朝の異母弟・阿野全成の妻となり、頼朝の次男・実朝が生まれるとその乳母となりました。また、梶原景時の鎌倉追放で重要な役割を担ったのがこの阿波局です。景時が源頼家に結城朝光について讒言することを事前に知った阿波局が朝光に告げ、これをきっかけに朝光は御家人を集めて景時を失脚させました。さらに、1203年に起こった夫・全成の謀反と没落の際には関与を疑われましたが、姉の政子が彼女を庇いました。北条氏の一員として、一族が大きくなるために一役買った女性でもあったといえるでしょう。

牧の方(まきのかた) 生没年不詳

駿河国大岡牧を治める牧宗親の娘(または妹)で、北条時政の後妻となりました。政子よりも年少とされるほど時政とはかなり年齢が離れていましたが、仲睦まじかったと言われています。1182年に北条政子が源頼朝の愛妾・亀の前の屋敷を打ち壊させた騒動は、牧の方が政子に頼朝の浮気を伝えたからだとされています。さらに1205年、娘婿である平賀朝雅が畠山重忠の子・重保と争ったとき、時政に讒言したことで畠山一族は滅ぼされました。しかしその後、牧の方が朝雅を将軍に擁立しようとする陰謀が発覚し、義時の手により時政とともに伊豆国に流されてしまいましたが、晩年は京都で過ごしています。

八重姫(やえひめ) 生没年不詳

『八重姫』という名は後の時代に創作されたものと考えられます。伊藤祐親の娘で源頼朝の最初の妻と言われていて、流人である頼朝の監視役だった祐親が大番役で上洛しているときに頼朝と通じ、千鶴御前という男子をもうけました。しかし、京から戻った祐親はこれを知って激怒し、千鶴御前を殺害して八重を江間小四郎に嫁がせました。その後、八重は頼朝のいる北条の館に行きましたが、頼朝がすでに北条政子と結婚していたことを知り、真珠ケ淵に身を投げたとされています。頼朝と八重が逢瀬を重ねたと言われているのが、静岡県伊東市にある音無神社です。

上総介広常(かずさのすけひろつね)

両総平氏の中心で、その勢力はほぼ上総国全域に及ぶほどの大勢力を誇りました。『吾妻鏡』では、石橋山での敗戦後に房総半島へ逃れた源頼朝にすぐには従わなかったように描かれますが、実際には上総国司である平家家人の藤原忠清に対抗するため、広常も頼朝に呼応するように挙兵したのです。広常は頼朝を支える有力御家人の一人でしたが、寿永二年(1183)に殺害されます。双六に興じている最中に、頼朝の命を受けた梶原景時に首を切られたとされます。広常が反抗的であったためだとされますが、これは頼朝が広常を排除した自らの立場を弁明するためであったと見られます。

三浦 義村(みうらよしむら)

三浦氏は摂関家領相模国三崎荘の荘官で、相模国の有力な在庁官人でもありました。祖父の義明は、頼朝が挙兵した直後に畠山重忠率いる平家方に攻められて戦死しますが、父の義澄は頼朝の信頼を得て幕府の御厩別当を務め、13人の御家人にも名を連ねました。義澄の跡を継いだ義村は、三浦一族の中心となりつつあった年長の従兄弟である和田義盛が義時打倒を図った際に、はじめは義盛に協力すると見せかけつつ義時に味方して義盛を討ちました(和田合戦)。承久の乱では、娘婿である泰時を補佐して幕府の勝利に貢献し、戦後には後高倉院の院政開始を要請するなど、事後処理にも尽くしました。義時の死後には評定衆にも名を連ねます。

畠山 重忠(はたけやましげただ)

1164年、現在の埼玉県深谷市付近を拠点とする武蔵国の畠山重能を父として生まれました。源頼朝が平家討伐のため挙兵した1180年、平家軍として在京していた父に代わり、17歳でこれを迎え撃つため出陣しました。房総半島で勢力を盛り返した頼朝が武蔵国に入るとこれに従い、鎌倉入りでは先陣を務めました。頼朝からも厚い信頼を得て、木曽義仲や平家の追討、奥州合戦などで多くの戦功を挙げました。また怪力自慢の逸話が多く残され、鎌倉に永福寺が建立された際には、三メートルほどの庭石を一人で持ち上げたといわれます。武勇に優れているうえに音曲の才能にも恵まれ、その清廉潔白な人柄は『吾妻鏡』などに数多く伝えられています。頼朝の死後、幕府の内紛によって多くの御家人が没落を余儀なくされましたが、重忠も武蔵国二俣川(横浜市旭区)で旧友の北条義時率いる幕府軍と戦い、討ち死にしました。

土肥 実平(どいさねひら)

土肥一族は相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた中村氏の一族で、足下郡(足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし、早川荘の預所職を務めていました。実平は源頼朝の挙兵の当初から従い、石橋山の合戦に敗れた際には頼朝を先導して真鶴岬から安房国に逃れ、房総半島で勢力を盛り返すきっかけをつくりました。平家追討にも活躍し、備前・備中・備後等の国の惣追捕使を務めました。

曽我兄弟(そがきょうだい)

曽我十郎祐成・五郎時致兄弟。建久四年(1193)、富士山の裾野で源頼朝が多くの御家人を招いて大規模な巻き狩りを行うなか、曽我兄弟は父親の河津祐泰を殺害した工藤祐経に仇討ちを果たしました。これは日本三大仇討ち(曽我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討ち入り、伊賀越えの仇討ち)の一つとして知られています。父の死後18年もの間、さまざまな苦難に耐えて仇討ちを果たす事件の顛末は、脚色されて「曽我物語」として広く知られ、後世には「曽我物」として歌舞伎や能などの題材として取り上げられました。

源 範頼(みなもとののりより)

源頼朝の異母弟で、遠江国蒲御厨で育ったことから蒲冠者・蒲殿とも呼ばれ、養育者である高倉範季の一字から「範頼」を名乗りました。1183年には異母弟の源義経とともに上洛して木曾義仲を討ち、鎌倉勢として初めて入京に成功しています。その直後には一ノ谷合戦で平家方に勝利し、三河守に任じられました。「曽我兄弟の仇討ち事件」の際には頼朝も暗殺されたという情報が流れたところ、鎌倉の留守居役であった範頼は北条政子に「自分が健在であるから源氏の支配は心配ない」と慰めたと言われています。頼朝が無事に帰還した後、この発言が謀叛であると問題視され、伊豆国に配流されます。その後誅殺されたと伝えられています。

木曽 義仲(源 義仲)(きそよしなか)

1154年に生まれた義仲は、従兄弟にあたる源義平(頼朝や義経らの異母兄)に父の義賢を殺害され、幼くして信濃国木曽に逃れ中原兼遠のもとで成長しました。1180年、以仁王による平家追討の令旨を受け挙兵。1183年には、倶利伽羅峠で平家の大軍を一夜のうちに壊滅させました。その後、北陸道を進軍、平家を都落ちさせ、無血入城を果たします。京では征夷大将軍に任じられ、朝日(旭)将軍とも称えられますが、頼朝の代官として派遣された源範頼・義経の軍に敗れ、31歳で近江国粟津ヶ原(琵琶湖畔)で討ち死にしました。

巴御前(ともえごぜん)

巴御前は木曾義仲に従い勇敢に戦う女性として有名ですが、『平家物語』の諸本にのみ描かれる人物で、実在したのかどうか定かではありません。『平家物語』では、義経らに敗れた義仲が討ち死にする前に離ればなれになったとされます。義仲と別れた後の巴御前については諸本によって描かれ方が異なりますが、後の世に『平家物語』が流布するなかで、各地に巴御前にまつわる伝承も生まれたと考えられます。

大庭 景親(おおばかげちか)

藤沢市と茅ヶ崎市にまたがる伊勢神宮の荘園「大庭御厨(おおばみくりや)」を所領とした武士で、源頼朝の父である義朝に仕えていましたが、義朝の死後は平清盛の信頼を得て関東における平家家人の中心の一人となりました。頼朝が挙兵した際には、平家方の総大将として石橋山の合戦に勝利します。しかし、その後に安房国(千葉県南部)へ逃れた頼朝が勢力を盛り返し、鎌倉に入った際には景親も対抗しきれず、京都へ逃亡を図ります。しかし降伏して上総介広常に身柄を預けられると、片瀬川(現在の藤沢市・境川)で斬首されました。なお、兄の景義は景親の死後も頼朝に仕えています。

丹後局(たんごのつぼね)

後白河法皇の寵姫で実名は高階栄子。後白河法皇の近臣・平業房の妻でしたが、業房が治承三年政変によって配流されると、後白河法皇に仕えるようになり、やがて法皇との間に皇女・覲子内親王を儲けます。平家滅亡後は鎌倉幕府との折衝などにも関与しました。建久二年(1191)に覲子が院号宣下を受けて「宣陽門院」と称されると、母の丹後局も従二位に叙されました。後白河法皇の死後はその近臣たちの中心となりますが、後鳥羽上皇が院政を始めると徐々に表舞台から退いていきました。晩年は亡夫・業房にゆかりの浄土寺に住んだことから、「浄土寺二位」と呼ばれました。
<取材協力>
神奈川県立歴史博物館 渡邊 浩貴
神奈川県愛川町郷土資料館 岩田 慎平
神奈川県藤沢市生涯学習部郷土歴史課 宇都 洋平

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