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鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

参道を歩きながら歴史を辿る「鶴岡八幡宮」

今日は由比ガ浜から続く約2㎞の若宮大路を、一ノ鳥居から歩み始めよう。 1232年北条泰時により造られた築港、和賀江島に着いた鎌倉期の賓客は、巨大な木の鳥居をくぐり、 八幡宮を目指して松並木の中を進んだであろう。現在の一ノ鳥居は高さ約8.5mの花崗岩で、造立には徳川二代将軍秀忠の夫人崇源院が関わる。「備前国犬島に奇岩あり。その石を持って鶴岡社前の大鳥居を建立し給うべし」との八幡神のお告げを夢で受けた。それが実現したのは四代将軍家綱の時代である。以後350年、関東大震災では倒壊したが復興され現在に至っている。

若宮大路のほぼ中央に、二ノ鳥居から一段高い道があり「段葛」と呼ばれている。これは頼朝公が1182年妻政子の安産を神に願うため北条時政などに命じて築かせたものである。三ノ鳥居をくぐり、参道を進むと、左手に手水舎に至る。この手水鉢は一ノ鳥居と同じ犬島産の石の中で特に巨岩を選び、鳥居に先立って寄進された。およそ高さ93㎝上面で縦199×横102㎝もある花崗岩で、脚部が別材に見えるが、一つの岩から掘り出されている。

手水舎でみそぎを済ませると目前に舞殿が現れる。かつて源頼朝公の弟義経の愛妾静御前が 舞ったという若宮の回廊跡に建てられた。1186年4月、頼朝公と政子が八幡宮に参詣したついでに静の舞を所望した。静は頼朝公と弟義経との仲違いにより、義経と共に逃げていたが、静だけ吉野山で捕えられ、鎌倉に連れてこられた。「よし野山 峰の白雪 ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき」と歌いながら舞う静のすばらしさに、見ている人々は水を打ったように静まり返った。鼓を工藤祐経、銅拍子を畠山重忠、笛を梶原景季という御家人たちが楽人を勤めた。頼朝公は義経を慕う歌を歌ったと激怒したが政子になだめられ、静に褒美を与えたという。

舞殿を右手に、大階段の左手に大銀杏の切り株が据えられている。樹齢800年以上といわれる大銀杏は2010年3月10日未明、強風にあおられ静かに倒れた。1219年1月三代将軍源実朝が右大臣となった祝賀儀式が、鶴岡八幡宮上宮で行われた。この樹陰から公暁は叔父である源実朝に切りかかったといわれている。この惨劇の背後には三浦義村または北条義時がいたと云われているが、歴史の謎である。

さらに進むと銅葺の屋根に朱塗りの二層の楼門が見え、中には11代将軍徳川家斉の命によって1828年に作られた社殿がある。拝殿でお参りを済ませたのち楼門を出る。本日は丸山稲荷社火焚祭である。上宮回廊の西方、小高い丘にあり、八幡宮に残る神社の建物の中で最も古いものである。お稲荷さんの総本社である伏見稲荷大社では、この日にお火焚きが行われる。丸山稲荷では、五穀豊穣への感謝、 氏子の無病息災を祈る。鎌倉時代にはすでに行われていた「鎌倉神楽」は、素朴な笛と太鼓に合わせた滑稽さが、氏子たちを楽しませていた。

記事提供:NPO法人 鎌倉ガイド協会

(記事公開日:2021/12/27)

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