浄楽寺
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浄楽寺運慶作秘仏に義盛の祈りを偲ぶ
浄楽寺は鎌倉殿の13人の宿老の一人、和田義盛ゆかりの寺院です。
義盛は三浦半島に勢力をもった三浦一族の武将で、三浦氏宗家の叔父義澄とともに2代将軍頼家を補佐する宿老の一人となりました。しかし、建久11年(1200)、義澄が亡くなったので、その後は義盛が一族を代表して政権運営に関わる形となりました。侍所別当という要職に就いていた義盛が宿老となったのは当然のことと言えます。
義盛が侍所別当という役を得たことについてはこんなエピソードが「源平盛衰記」にあります。
治承4年(1180)、頼朝は石橋山で挙兵して敗れ、海路安房の国に逃れますが、頼朝に加勢して衣笠城で平家の軍勢と戦った三浦一族も軍(いくさ)に敗れて海路安房に向います。この時、海上で邂逅し互いの無事を喜び合いますが、軍の中で斃れた者達を思って皆が嘆き悲しんでいる時、「このように君(頼朝のこと)が生きていらっしゃるのだから嘆くことはない、頼朝様には平家を滅ぼし本懐を遂げて欲しい。その暁には自分を日本国の侍の別当にして欲しい」とねだります。気の早いことを言うやつだと頼朝は笑いますが、鎌倉入りを果たすと義盛を侍別当に取り立てたというのです。
義盛の生年は分りませんが、頼朝と同年と考えられています。ほぼ同じころに父親を亡くしている境遇も頼朝に義盛への親近感を抱かせた要因かもしれません。
頼朝は父義朝や合戦で自分のために亡くなった者達を供養するためいくつもの寺院を建立していますが、義盛も仏教に対する帰依の念が強かったようです。浄楽寺は、文治5年(1189)に義盛が建てた7つの阿弥陀堂の一つが始まりと伝えられています。義盛は建暦3年(1213)、和田の乱で北条義時勢と鎌倉府内で戦い討ち死にしますが、その後、光明寺二世の寂慧良暁により浄土宗の寺院となり現在に至っています。
享保8年(1723)竣工と考えられる趣きある本堂に参拝し裏手に回ると収蔵庫があり、5体の仏像が安置されています。阿弥陀如来とその脇侍(観音菩薩、勢至菩薩)、そして不動明王と毘沙門天、この5体すべてが、全国に30数体しかないと言われる運慶作の像で、国の重要文化財に指定されています。かつては、鎌倉の勝長寿院の仏像を移したものとも言われましたが、昭和34年に毘沙門天像胎内から発見された銘札に、和田義盛とその妻が運慶に造らせた像であると書かれており、その来歴が明らかになったのです。
収蔵庫の前に水原秋桜子(1892~1981)の句碑があり、「若葉せり 三尊の弥陀 照りたまひ」と刻まれています。昭和35年6月、檀家総代の招きで訪れた時の作と言われ、三尊はまだ本堂の中にありました。ガラス窓から入り込む若葉の光に照り映え、穏やかな中にも躍動感漲る(みなぎる)金色(こんじき)の仏たちに接した感動が見事に表現されています。
毎年、3月3日と10月19日に一般公開が行なわれ、その力強い作風に多くの人が魅了されています。他の日でも予約をすれば拝観可能ですが、お勧めは駐車場で朝市の開かれる土曜日です。地元の新鮮な野菜・魚介が皆様をお待ちしています。
記事提供:NPO法人 よこすかシティガイド協会
(記事公開日:2022/1/14)