史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)
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法華堂は13人の御家人にも深いゆかりが・・・
建久9(1198)年12月27日、源頼朝は相模川の橋供養に参列した帰路に落馬し、翌建久10(1199)年1月13日に53歳で亡くなったと伝えられています。しかし、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』には、建久7(1196)年から頼朝が亡くなる建久10年1月までの記事がありません。このことから頼朝の死についてはいろいろな説があります。頼朝の死から13年後の建暦2(1212)年2月28日の『吾妻鏡』に、相模川の橋を修復する記事のなかに、建久9年に頼朝は、この橋の完成供養に出席した帰路に落馬し、まもなく亡くなったと書かれています。
現在、源頼朝の墓がある場所には、頼朝の念持仏である高さ2寸で銀製の正観音菩薩像をまつる持仏堂がありました。頼朝はここに葬られ、法華堂と呼ばれました。正治2(1200)年1月13日に頼朝の一周忌が、栄西を導師として法華堂で行われました。また、建暦3(1213)年の和田義盛の乱の時には、3代将軍源実朝は法華堂に避難しました。
現在の頼朝の墓は薩摩藩主島津重豪により、安永8(1779)年に建てられました。石塔は勝長寿院から移されたといわれています。
江戸時代には法華堂は石段下に移されました。明治の神仏分離により、頼朝を白旗大明神として祀る白旗神社となり、法華堂に祀られていた如意輪観音や地蔵菩薩などの仏像は、西御門の来迎寺に移されています。
頼朝の墓の東側には鎌倉幕府2代執権北条義時の法華堂が有りました。元仁元(1224)年6月13日に没した義時は、『吾妻鏡』によると、「前奥州禅門(義時)を葬送す。故右大将家(頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす。」とあります。平成17年に行われた発掘調査により、一辺が8.4mの方三間の建物跡が確認され、『吾妻鏡』の記事が実証されました。現在は法華堂の場所がわかるように、杭とロープで表示されています。
義時法華堂の先の西側にやぐらがあります。これは宝治元(1247)年に北条氏・安達氏と三浦氏が戦った宝治合戦で、三浦泰村以下500人が頼朝の法華堂にこもり自決した三浦一族の墓所と伝わっています。ここに相模の名族三浦氏は滅亡しました。
義時の法華堂の奥に二つの石段があります。東側(向って右側)の石段を上ると、薩摩島津氏の祖といわれる島津忠久の墓があります。島津氏の系図では島津忠久は頼朝の子となっています。この墓は島津重豪が頼朝の墓を造るときに造りました。西側(向って左側)の石段を上ると、大江広元と毛利季光の墓があります。
これは長州藩毛利家により造られました。
大江広元はもとは下級貴族で、三善康信・中原親義とともに、頼朝の要請により京都から鎌倉に下り、頼朝の側近となった実務官僚で、草創期の鎌倉幕府を支えました。毛利季光は大江広元の子で、相模国毛利荘(現・厚木市)を支配し毛利姓を名乗りました。毛利季光は三浦泰村の妹を妻としており、宝治合戦で季光も三浦一族とともに自決しています。しかし、季光の子・経光は宝治合戦に関与せず、毛利元就にさらに長州藩毛利氏につながっています。
北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦泰村の祖父三浦義澄・和田義盛は「鎌倉殿の13人」に含まれます。
記事提供:NPO法人 神奈川歴遊クラブ
(記事公開日:2022/1/14)