妙本寺
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比企一族滅亡の舞台となった
くぐると正面に祖師堂がどっしりと構えています。日蓮宗宗祖であり開山の日蓮聖人をお祀りしています。建物は天保年間に再建されたという十間四方の豪壮な建物で、鎌倉最大級の木造仏堂建築です。正面に突き出した屋根(向拝)の下の龍や木鼻など彫り物は見応えがあります。
寺のある比企谷(ひきがやつ)は源頼朝が乳母(めのと)であった比企尼に与えたことからその名が付いたともいいます。比企尼は頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されていた20年の間、物心両面の援助をし続けました。その縁から尼の甥で養子の比企能員は頼朝の信任厚い最側近でした。
比企谷には能員の屋敷があり頼朝・政子はここをたびたび訪れています。政子が頼朝嫡子頼家を出産のときには産所となり、能員の妻が乳母となっています。のちに能員の娘若狭局が頼家に嫁して嫡男一幡を産み、能員は頼家の外戚となって権力を一層強めます。
頼朝の急死後、18歳で跡を継いだ頼家は二代将軍となりますが、政治の実権は先代頼朝を支えた重臣たち13人による合議制で運営していくことになりました。能員や北条時政、義時はそのメンバーです。
その後、頼家が病に倒れたのをきっかけに、頼家の家督は嫡子一幡と弟実朝とで分割相続することになり、頼家、能員は実朝を推す時政と対立を深めます。
そのなか能員は時政邸に招かれ謀殺されます。その日のうちに義時を大将とする大軍勢が比企谷を急襲し比企一族は滅ぼされました。比企の乱です。
権勢を誇った能員とその一族はたった一日にして滅亡しました。権力闘争の凄まじさと無常を感じます。
祖師堂の横に比企一族の墓と6歳で落命した一幡の袖塚があります。境内北側にある蛇苦止堂には入水した若狭局を祀っています。
唯一生き延びることができたのは能員の末子で2歳の能本でした。能本はのちに比企谷の屋敷を日蓮聖人に献上、一族の供養のため妙本寺を創建しました。鎌倉時代中頃のことで日蓮聖人を開山とする最古の寺です。
寺では春は桜、桜のあとはカイドウが賑やかに花をつけ、続いて鐘楼下の斜面にシャガが白地に青い斑点の上品な花を咲かせます。夏には二天門のうしろにある一対のノウゼンカズラがオレンジ色の花をつけ緑に映えます。秋には紅葉が静かな境内を彩ります。
記事提供:NPO法人 神奈川区いまむかしガイドの会
(記事公開日:2022/1/14)