円覚寺
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鎌倉で唯一の国宝建造物「円覚寺舎利殿」
円覚寺の山門をくぐると、禅宗様の伽藍配置に沿って仏殿、方丈などが一直上に並び、右手高台には国宝の洪鐘が、そして周囲に建つ塔頭の多さに、さすが鎌倉五山第二位、大寺の風格を感じさせる。
塔頭の多くは境内の傾斜地に建てられている。然も建立された当時は、更に険しい山峡の谷間を、開基・北条時宗が両側の山を切り崩した、いわば造成地のはしりとも云える円覚寺、七百余年の星霜を経た現代になって、裏山の名月谷背部の宅地造成問題に悩まされることになろうとは、皮肉な巡り合わせだ。
国宝舎利殿は、そんな円覚寺境内の北側、開山・無学祖元にゆかりある開山塔や開山堂が建つ塔頭・正続院の区域にあり、中には三代将軍源実朝が宋から招じた仏舎利が納められてあった。舎利とは仏陀の遺骨のこと、因みにここに祀られたのは、仏牙舎利(右奥歯)だったと伝わっている。
伝説によれば、実朝はある時「宗の能仁寺の南山道宣律師の再誕である」と夢で告げられ宗を尋ねる決意を固めた。船まで造らせたがその船が動かず、渡宗を諦めた実朝は、代参の僧を能仁寺に派遣した。その折に返礼として仏舎利を招請したのだと云う。
実朝は、自らが開基した大慈寺に大切な仏舎利を奉安していたが、弘安八年(1285)、この地に移すために建立されたのが円覚寺舎利殿なのである。以前は、鎌倉時代に創建された当時のままと考えられていたのだが、その後の調査研究により、応安七年(1375)以来三回の火災に遭ったことが明らかとなった。現在の建物は永禄六年(1563)の円覚寺大火後、鎌倉西御門にあった尼五山第一位、太平寺の仏殿を移築したもので、豪快さよりも優雅な感覚の堂宇である。
廃寺になってしまった大平寺の沿革は明らかでなく、従って現在の舎利殿の年代も不明なのだが、舎利殿の様式と瓜二つに酷似した東京・東村山市の正福寺地蔵堂から、応永十四年(1407)の墨書銘が発見されており、現舎利殿も恐らくそれに近い室町時代に建立されたものと考えられている。
主屋方三間の周囲に「もこし」がめぐり、禅宗様建築の一般形式で、内外、細部とも典型的な古式を伝える。禅宗成立の地、鎌倉における洗練された純粋な禅宗様建築としての価値は極めて高く、1951年国宝に指定された。
しかし、普段の拝観は門外から眺めるだけ、年にわずか正月三が日と十一月初旬に、宝物の風入れが行われる日のみに内部が公開される。
瀟洒な木組み、水のゆらめきを思わせる欄間、波型連子などと、文献や写真で得た知識から、日本最古の唐様建築の実物を間近で拝観したいのは人情である。しかし私は、中門の外に立ち、過ぎた長い歴史を潜める舎利殿に向きあうとき、鎌倉への趣が一層深まるのを感じるのだ。
記事提供:NPO法人 保土ヶ谷ガイドの会
(記事公開日:2022/1/21)