源実朝公御首塚(みしるしづか)
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若くして亡くなった実朝の首塚がなぜ秦野に?
丹沢山系の麓、長閑な田園風景が広がる秦野市東田原に源実朝公御首塚がある。
1219年1月27日、雪がしんしんと降り積もる大雪の日、実朝は鶴岡八幡宮において右大臣拝賀式を終えた後、大イチョウの下で猶子であり甥でもある公暁に殺された。28歳の若さであった。そしてその首は三浦の郎党である武常晴によって鎌倉から約30km離れた秦野の地に持ち運ばれた。
首塚の近くには金剛寺(臨済宗建長寺派)がある。実朝の法名の金剛寺殿が由来で寺紋は笹竜胆。ここに木造の五輪塔(現在鎌倉国宝館に寄託)を造り実朝の菩提を弔った。近くにはもう一つ、波多野城址がある。秦野は波多野氏の本拠地であり、実朝の33回忌には波多野忠綱が退耕行勇を招き五輪塔を石造のものに改修し寺を再興した。
【なぜ秦野の地に実朝の首塚があるのか】
話は和田合戦まで遡る。和田義盛と北条義時が戦った時、和田の一族である三浦義村は直前で北条方に寝返り和田を裏切った。このことが大きな敗因となり和田は滅亡した(三浦の犬は友をくらうぞ)。この時武常晴の父は和田方として戦い、一騎掛けに挑み討ち死にした。一方波多野氏は当初より北条方として戦ったがその功労において三浦と揉めた。結果、波多野が退くことになり遺恨となった。また常晴の母は実朝の乳母の一人であったことから、常晴と実朝は乳兄弟の関係になる。この時代の乳兄弟は血の繋がりよりも強いものがあったようだ。また三浦義村が暗殺に関与していたと感じていたならば彼が実朝の首を三浦には渡さず波多野氏を頼ったことは自然かもしれない。
【実朝と和歌】
和歌については藤原定家に師事し、後鳥羽上皇ともその関係が深くなっていく。彼は「金塊和歌集」を編纂した。現代でもこの和歌集への評価は高く、正岡子規などは絶賛している。
首塚の傍に歌碑が立っている。
「ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかな 親の子をおもふ」
親が子を思う気持ちを歌っている。この歌からはどうしても彼の母、政子の気持ちを考えてしまう。大姫は心を開かないまま20歳の若さで亡くなった。頼家は祖父によって非業の死を遂げた。乙姫は14歳の短い一生であった。そして実朝は孫の手に掛かり首を刎ねられ孫の公暁も死んだ。子や孫がみな自分より先に逝ってしまった。気丈な女性であっても、親にとってこれ程の悲しみはない。
山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」
後鳥羽上皇への恭順の意を表した歌である。この歌によって実朝は自分自身の命を短くしてしまったのかもしれない。
「出でいなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」伝実朝辞世の句
兄頼家と同じ道を辿ることを彼は感じ取っていたのだろうか。
ある意味、実朝は武門の家、源家に生まれてくるべき人ではなかったのかもしれない。
※イベント:11月23日「実朝まつり」・関係図書:葉室麟著「実朝の首」
記事提供:NPO法人 神奈川歴遊クラブ
(記事公開日:2022/1/21)