建長寺
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建長寺と北条時頼
JR北鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ昔の鎌倉道を歩くこと15分、堂々とした総門が見えてくる。ここが建長寺の入口になる。
源頼朝が治承4年(1180)に由比郷鶴岡にあった鶴岡若宮を現在の小林郷北山 に移した。その鶴岡八幡宮が現在の地に移った約70年後の建長5年(1253)に鎌倉幕府第5代執権・北条時頼により建長寺はこの地に創建され、禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)により開山された。
建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある中心部からは山一つ隔てたところに位置し、鎌倉の北の出入口の護りにあたる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。
建長寺はわが国最初の禅宗専門寺院として建立され、現在鎌倉五山の第一位に位置づけられ、臨済宗建長寺派の大本山になっている。
創建当時の伽藍配置は、中国宋時代の禅宗寺院を模したもので、総門・山門・仏殿・法堂・方丈などの主要な建物が直線にならび、左右に大禅堂・大食堂を有する寺院でした。その後14~15世紀に起こった数度の火災により、その多くが焼失してしまった。
江戸時代に入り、高名な沢庵和尚(たくあんおしょう)や金地院崇伝(こんちいんすうでん)の進言、徳川幕府の後援などによって再建・復興し、平成15年の創建750年事業によってほぼ現在の姿に整備された。
建長寺の開山(創始者)蘭渓道隆とは、中国・宋末の禅僧で、寛元4年(1246)、33歳で来日した。はじめ九州筑前国博多に着き、京都を経た後、鎌倉入りし北条時頼に請われて建長寺に迎えられた。
【建長寺を造った北条時頼とは】
時頼が幕府の執権職についたのは寛元4年(1246)のことで、頼朝が鎌倉に入ってから、66年後のことであった。
時頼は、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時のひ孫にあたる人物である。
頼朝が鎌倉に入って66年間、世ははげしく変わった。19年後の建久10年(1199)には頼朝が謎の死を遂げている。時頼が執権になった当時、幕府の政治の中枢にある評定衆のメンバーの大半(三浦泰村など)が時頼を支持していなかった。
さらに、前将軍・藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、北条の一族であった名越光時(義時の孫)が、頼経を推して軍事行動を準備するに至り、これを時頼は鎮圧するとともに反得宗勢力を一掃し、頼経を京都に強制送還した。(宮騒動)これにより執権としての地位を盤石なものとした。
翌年、宝治元年(1247)には安達氏と協力し、有力御家人であった三浦泰村一族を滅ぼした。(宝治合戦)
続いて千葉秀胤(ちばひでたね)に対し追討の幕命を下し、上総国で滅ぼし、これにより幕府内の反北条氏の御家人は一掃され、北条氏の独裁政治が強まった。
一方で、時頼は質素かつ堅実で宗教心にも厚い人物であった。さらに執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対し善政を敷いた。
鎌倉時代を通じ、時頼の執権の頃がもっとも安定していたといわれ、後世の評判は非常に良い。こうした経緯から、後年、謡曲「鉢の木」に登場する人物として、有名な「廻国伝説」が生まれたのである。
記事提供:NPO法人 東海道ウォークガイドの会
(記事公開日:2022/1/21)