満昌寺
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源頼朝の三浦義明への想いがこもる満昌寺
この寺は鎌倉幕府を開いた源頼朝が衣笠城での三浦義明の討ち死にを高く評価して建てたという。本堂には横須賀市指定の文化財、木造宝冠釈迦如来坐像と木造天岸慧広座像が安置されている。
建久5(1194)年9月29日、源頼朝は「故大介義明」の菩提を弔う為にお堂の建立を思い立ち中原仲業に「三浦矢部郷内」の巡検を命じた。征夷大将軍となって2年が経過し、名実ともに幕府が着実な歩みを始めた時、頼朝は辛かった挙兵の時を思い出したのであろう。三浦一族は、源氏譜代の御家人であり、主従関係の繋がりが深かったので頼朝自ら菩提を弔う気持ちになったと思われる。源頼朝が自ら三浦氏の為に創建した寺院が二ケ寺ある。相模国山内庄本郷(横浜市栄区上郷町)の真言宗證菩提寺、そして相模国三浦郡の満昌寺である。
證菩提寺は石橋山の合戦で頼朝の身代わりとなり戦死した三浦義明の甥、真田与一義忠の追福のためであり。満昌寺は衣笠合戦で頼朝の源氏再興の為自刃した三浦大介義明の菩提を弔うためである。石橋山の合戦では頼朝の舅、北条時政の子宗時も戦死しているが頼朝が宗時を弔う寺を建立した形跡は見当たらない。多くの源氏譜代の家臣の中で源頼朝が家臣の為に建立した寺院は吾妻鏡などの記録によれば三浦氏だけである。
建久8(1197)年8月、義明の17回忌に当たる日に頼朝が満昌寺に参詣し大供養を行ったという。頼朝はこの時「今まで義明は生きていたと思う」と遺族に情けをかけたといわれている。三浦の祝い詞に「鶴は千年、亀は万年、三浦大介百六つ」と歌われるのは、89歳で討ち死にした。年に17を加えたものである。境内には「頼朝お手植えの杜鵑花」といわれるサツキの大株がある。理由はよくわからないが、この「サツキ」の下をくぐると頭痛が治るとされたが、根の損傷防止の為か現在は周りにロープが張られている。
本堂左手の石段を登ると御霊神社がある。義明の孫にあたる和田義盛が建歴2(1212)年に建てたといわれ、今は社殿と宝物殿を兼ねた造りとなっている。ここに三浦大介義明の座像(国重要文化財)が祀られている。衣冠束帯で寄木造、目は水晶右手に勺を持ち、腰に大刀をつけている。両肩を張り、量感あふれる体格、豊かな髭と厳しく強い表情が特徴的で老人ながら力強さを感じさせる。
宝物殿の裏手には義明夫妻の廟所がある。宝篋印塔を中心に右側に五輪塔、左側に板碑が置かれている。周囲の土塀は、寛延2(1749)年に三浦宗家の末裔と伝わる美作勝山藩主の三浦志摩守が修理したものといわれる。
※満昌寺宝物殿拝観は事前予約が必要、拝観料はお一人300円。なお、本堂の拝観は出来ません
記事提供:NPO法人 よこすかシティガイド協会
(記事公開日:2022/1/21)