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石橋山古戦場、佐奈田霊社

石橋山古戦場、佐奈田霊社

源頼朝挙兵の地を訪ねて

平治元年(1159)の平治の乱で、平清盛により父源義朝は敗死し、三男の源頼朝は永暦(えいりゃく)元年(1160)3月、伊豆の伊東に配流され、その後、北条時政の本拠付近、蛭ヶ小島(ひるがこじま)に移り、治承(じしょう)4年(1180)4月27日、平氏討伐を命ずる後白河の第二皇子・以仁王令旨(りょうじ)が伝えられた。
大庭景親・伊東祐親ら平氏方3000余騎が向かってきたが、頼朝軍は伊豆国の北条氏を筆頭として土肥実平等300余騎で旗揚げをした。伊豆国から三浦一族や千葉常胤(つねたね)に挙兵を促し相模国を目指し、伊豆国を出発し早川尻に陣形を取ったが、箱根側から攻め込まれたら背側が海で逃げるに難しいので、同行の土肥の里に向かって陣形を立て直した地が石橋山である。
石橋山古戦場跡碑

頼朝が平氏討伐の兵を挙げ、山木邸を襲撃したのが8月17日、石橋山の戦いが勃発したのが8月23日、いわゆる源平合戦の幕開けである。この時、頼みとした三浦一族は、豪雨による酒匂川の増水に阻まれ頼朝軍と合流できなかった。
結局は衆寡敵せず、24日には頼朝軍は付近の地形に詳しい土肥実平に先導され、大庭景親(平氏方)から逃れるように椙山(すぎやま)へと向かい、命からがら逃れた頼朝は8月28日には真鶴岬から安房を目指して渡海することになる。
安房への渡海は石橋山の戦い敗北の結果ではあるが、上総介・千葉氏に依存する面は大きく、渡海は当初からの予定とみられる。海上で三浦一族と合流した頼朝は、安房に上陸し上総介・千葉氏との合流も待つことになり、三浦一族が待つ三浦方面へと兵力を拡大し、10月6日に鎌倉へ入ることになる。
頼朝挙兵の地である石橋山での逸話はこの付近の各所に残っている。散策の路順からすると、「いざ石橋山」と参戦を考えていた平塚の岡崎義実の子・佐奈田与一は、病み上がりのために尾根の急坂を、念仏を唱えながら登ったと云われ、この坂は「念仏坂」と呼ばれていた。現在では蜜柑畑となり、その面影は急峻な坂が微かに見える程度であるが、鉄道マニアの間で季節の良い時、絶好の写真スポットの場所として幾人もの人に会うことも珍しくない場所である。

  • 念仏坂付近
その峯を登り切り少し下ると石橋山の戦いのハイライトと云うべき、佐奈田与一の霊を祀った佐奈田霊社の史跡石塔が見えてくる。江戸時代、この路が根府川関所に繋がる路として大変重要な路であった。
佐奈田霊社門碑

石塔を見ながらなだらかな坂を下ると、左手には根府川石を使用した大きな「石橋山古戦場跡碑」が見られる。峯を大きく迂回すると先程の根府川往還に突き当たり、その先を路なりに向かうと、歌舞伎で有名な佐奈田与一と俣野五郎の一騎打ちで「痰(たん)」で声が出ず、討ち取られた「ねじり畑」と呼んでいる地がある。この一騎打ち以来、この地は野菜や果物を植栽しても根寄れが生じ、「ねじれ畑」と呼ばれている。

ねじり畑

佐奈田霊社は「石橋山持ち」であるが、ねじり畑を過ぎ50m程歩くと細い水路が程歩くとあり、その先は「米神村持ち」になり、文三堂は米神村持ちになる。
文三も家安文三と云われ、与一の育ての親であり、家臣として老体を鞭打ってこの戦いに出陣したとあり、豪雨の中、主人の行方を見失い、死を知った時に敵陣を目指して戦ったと云われ、忠義の鑑(かがみ)としてこの地に祀られている。

文三堂石段

「吾妻鏡」によると、≪峯を隔てて・・・・≫とあるが、その場所は特定されていない。それを想わせる場所として片浦村誌等に記される「武衛平」からの眺めは、その当時の様子が想い浮かばれ、平氏方の位置が佐奈田霊社辺りであったのかと思わせる場所である。
そんな雰囲気を感じながら、ゆっくり古戦場跡碑まで逆路を歩き、旧135号線に出て遥か鎌倉方面を眺め、空気の澄んだ冬場では遠く房総半島まで望むことができる場所である。
帰りには「漁港の駅 TOTOCO」に寄り、海の幸と山の幸をお腹に収めて帰るのも楽しいコースになる。JR早川駅まで海沿いの徒歩10分程度の距離である。

記事提供:NPO法人 小田原ガイド協会

(記事公開日:2022/1/28)

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