三療山医王院 薬王寺、海蔵山 太寧寺
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横浜金沢に伝わる「悲運の武将・源範頼」
兄・源頼朝の代官(大将軍代理)として源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討伐する大任を果たした「源範頼」を知っている方は多くありません。
源頼朝と対面するまでの範頼の過去はあまり分かっていません。いろいろな説はありますが、遠江国蒲御厨(とうとうみのくにかばのみくりや)(伊勢神宮内宮領・現静岡県浜松市)が生地とされています。この事から「蒲冠者(かばのかじゃ)」「蒲殿(かばどの)」と呼ばれています。後に藤原範季に養育されて「範頼」と名乗る様になりました。
源範頼像
鎌倉がようやく平穏を保とうとしている時に曽我兄弟の仇討ちが起こりました。頼朝が討たれたとの誤報が入り、嘆く政子に対し「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたことが謀反とみなされてしまいます。起請文を書いたり、家来がお伺いをたてたりしますが、伊豆国へ幽閉されることになります。その後の詳細が判っていません。修善寺で誅殺された、伊豆国から逃走して横須賀市追浜に逃げた、北本市石戸宿に逃げた、吉見観音付近に隠れ住んだ等、数々の「範頼伝説」が生まれました。後世の書には、範頼を能力の低い者として扱っている記述が多いのですが、根強い人気があるようです。
横浜金沢の地には、「源範頼」ゆかりの寺が2ヵ所あります。
「薬王寺」は、元は称名寺境内位置にあった三愈山遍照房(さんゆさんへんしょうぼう)という僧房でしたが、堂宇の整備に際して現地に移転し、薬師堂を併設しました。鎌倉時代前期に建仁寺の千光国師・栄西が、悲運の武将・源範頼の霊を弔うために範頼の戒名・太寧寺殿にちなみ臨済宗太寧寺を建立しました。この折、由緒ある薬師寺の号が廃されることとなったため、遍照房に源範頼の位牌、範頼の念持仏と伝えられる薬師如来立像、仏具等を継承させるとともに、遍照房を薬王寺と改名しました。境内には、範頼公の800回大遠忌に際し建立された太寧寺殿五輪塔があります。命日とされる8月24日には範頼追善供養の「三河忌」が執り行われます。
「太寧寺」は、かつては瀬ケ崎にあり(現関東学院六浦小学校付近)、三万坪の広大な敷地を有していた範頼の別邸にあった薬師寺跡に、千光国師によって建立されたと言われています。“範頼が梶原景時親子の急襲を受け、自ら火を放ち自盡した後に灰燼中より得た首級を頼朝検分の上、この地に埋葬したと伝えられる”と言われていますが、“修善寺より追浜まで逃げ延びて、この薬師寺で自刃した”との説もあります。戦時中に、強制疎開させられて、今は片吹の地にありますが、遷る時に範頼の供養塔と小川笙船の供養塔だけは、檀家総出で運んだと古老は伝えています。
時代は進み、供養の五輪塔も苔むしてきましたが、春先には石戸宿・東光寺(範頼開基と伝える)の境内に佇む「石戸蒲ザクラ(天然記念物)」から枝分けされた桜が可憐な花を咲かせます。
源範頼供養塔(太寧寺)
記事提供:NPO法人 横濱金澤シティガイド協会
(記事公開日:2022/1/28)