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常楽寺

常楽寺

北条泰時が眠る常楽寺は建長寺の根本の寺

JR大船駅と北鎌倉駅の中間の常楽寺バス停で降り、見事な枝ぶりの松を頼りに徒歩2分で、常楽寺の参道に着く。
  • 粟を積んだ小舟が、門前に行き来していたので「粟船山」の山号

石柱に「木曽義高・北条泰時公墓」粟船山常楽寺と刻んである。1237年泰時公の妻の母親の供養のために創建。当時「粟船御堂アワフネミドウ」の名は、この一帯では粟を積んだ船が、行き来していたといわれる。このお堂の開山は、退行行勇。1242年泰時公は亡くなり、ここに葬られた。法名は「常楽寺殿」といわれ、寺の名前は、常楽寺に改められた。

  • 「粟船山」扁額を掲げた山門

泰時公は2代執権北条義時の長男として、1183年に生まれ、1221年承久の乱では総大将として朝廷側を破る。3代執権就任後、源頼朝以来の武家のならわしやしきたりをもとにした「御成敗式目」を1232年に作る。御家人の権利や義務を明らかにし、後世まで武家の法律の手本になった。鎌倉の街を整備し、現存する最古の築港遺跡「和賀江嶋ワカエノシマ」を築かせた。幕府の体制を整え、権威を高めるとともに、執権の身でありながら質素と倹約に努め、60歳で亡くなった。
1246年宋からやってきた蘭渓道隆は、寿福寺から常楽寺に招かれ、建長寺ができる1253年まで5年近く常楽寺に住まい、道場を開き、中国禅を日本人に教えていた。そのため、常楽寺は建長寺の根本の寺といわれている。

  • 狩野雪信描いた仏殿天井の龍が、色天無熱池に、水を飲みに行ったという

参道入り口から茅葺山門を通り、奥の仏殿まで直線180m。仏殿には、阿弥陀如来坐像と脇侍の観音・勢至菩薩像を中央に、右には蘭渓道隆像(室町期作)が安置。天井には、女流画家狩野雪信が描いた龍の図がある。その昔、龍が水を飲むため、仏殿右の「色天無熱池シキテンムネッチ」に行き、お堂がミシリミシリとなり困ったので、目をつぶしたとの伝説がある。仏殿左には、蘭渓道隆が書いたといわれる「秋虹殿シュウコウデン」の額が掲げられている文殊堂がある。建物は明治初期、扇が谷英勝寺から移された。道隆が宋から持ってきたといわれる文殊菩薩像をまつり、不動明王像・毘沙門天像も安置され、毎年1月25日の文殊祭には扉が開かれる。
仏殿裏竹林に泰時公墓。裏山「粟船山」中腹に、泰時公の娘で三浦泰村の妻であった姫宮の墓が祀られている。頂には、木曾義仲の長男である志水冠者義高シミズカジャヨシタカの墓と伝えられる塚がある。木曽義仲は源頼朝の従弟だが、長男義高を人質として送った。表向きは頼朝夫妻の養子として、大姫の許嫁イイナズケにしていた。1184年、近江で義仲を討った頼朝は、義高を討つ機会を狙っていた。

北条泰時公の墓前に、花は絶えない


大姫は、父頼朝に願うも聞き入れられず、大姫の気持ちを察した母政子は、義高に大姫の着物を着せ、女性の姿で逃がした。しかし頼朝はすぐに義高を追わせ、武蔵の入間川で捕らえ、義高の首は鎌倉に送られ、常楽寺南西300mくらいの田んぼの塚に葬られた。それから500年、1680年ある村人がこの塚を掘ったところ人骨の入った青磁の瓶が出てきたので、常楽寺境内に塚を築き納めた。今も語られる頼朝の娘大姫と木曽義高の幼い恋の物語である。

粟船山の山頂、木曽義仲の長男義高公の墓と伝えられる塚

記事提供:NPO法人 鎌倉ガイド協会

(記事公開日:2022/1/28)

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