愛甲三郎館跡石碑
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厚木に生きた二人の鎌倉武士(毛利季光と愛甲季隆)
源義家(八幡太郎)の子義隆は毛利庄(厚木市飯山)の領主で毛利姓を名乗りました。厚木市上荻野の源氏河原は義隆の館があった場所と伝わっています。
平治の乱で義隆が討ち死にした後、毛利庄は藤原姓毛利景行が支配しています。石橋山合戦で平家方についた景行は、鎌倉幕府が開かれると清川村煤ヶ谷に館を構えたといわれています。煤ヶ谷の八幡神社は景行が勧請し、その子小太郎・小次郎が現在位置に移したといわれ、明治期には横浜の居留者が宮ケ瀬で行楽を楽しむとき休憩地として利用されています。
頼朝は源氏ゆかりの地であった毛利庄の預所職に大江広元を任命しており、頼朝が娘大姫の病気回復を祈願し日向薬師に参詣したときに、下毛利庄で広元が用意した昼食をとったことが知られています。毛利庄には広元の四男季光が住み毛利姓を名乗り、承久の乱(1221年)では北条泰時、三浦義村とともに乱の平定に活躍して安芸国吉田庄や越後国佐橋庄の地頭にもなっています。
このころ、天台宗と浄土宗の争いは激しくなり、嘉禄三年(1227)には朝廷も巻き込んだ騒ぎとなってしまいます。浄土宗に帰依していた季光はこの騒ぎで陸奥国に配流されることになった浄土宗高僧隆寛の護送を命じられますが、館があった三島神社(厚木市上古沢)近くの飯山に庵を設けて匿っています。庵は浄土真宗に改宗したときに寺名を池谷山教念寺から光福寺と改めていますが境内には飯山で生涯を閉じた隆寛のお墓があります。
厚木に住んでいた武士愛甲季隆は古今和歌集でも知られる小野篁(たかむら)の子孫と称し武蔵七党の一つとして栄えた横山党の一員でした。季隆は弓や乗馬の名人として知られ、弓始め、牛追物や鹿狩りに幾度も召し出され、曽我兄弟の仇討が起きた建久四(1193)年の富士野の巻狩りや頼朝が摂津住吉大社で催した流鏑馬の手本の作成に参加しています。
季隆の館は厚木市愛甲にある上愛甲公民館付近とされ、御屋敷添の地名や稲荷神社、土塁が残り、近くの宝積寺には季隆の墓と伝えられる石塔もあります。
館の北西には相模十三社の一つとされる小野神社があり横山党の一人である季隆が深く信仰していたと伝えられています。
季隆は和田合戦で和田義盛に味方していますが、地元には、その理由が頼朝に愛され正妻政子に追われた丹後局を匿い大阪に送り出したことを知った政子が愛甲館を焼き払ったことにあるという話が残っています。季隆が炎上する館を見て北条家との決別を決意したという場所には縁切り橋の地名が残り、近くの小町神社には匿われていた丹後局が使ったという小町井戸、化粧池などがあり、島津国史は丹後局が摂津大阪住吉大社で生んだ忠久が島津家の始祖であると伝えています。
鎌倉にある大江広元のやぐら脇には江戸時代に毛利家の手で大江季光のやぐら、島津家の手で忠久のやぐらがそれぞれ造られています。
記事提供:あつぎ観光ボランティアガイド協会
(記事公開日:2022/2/4)