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城願寺、しとどの窟

城願寺、しとどの窟

源頼朝の旗揚げに力を尽くした土肥実平

【JR湯河原駅前に建っている土肥実平夫妻の銅像が、何故に改札口に背を向けているのか】

(1)JR湯河原駅前の土肥実平夫妻銅像
それは源頼朝が舅の北条時政とその子三郎宗時、小四郎義時らを伴い、平家打倒のため、伊豆山神社を経て土肥実平の館へ来るのを迎える為、その方向を向いているのである。
相模国の土肥郷に進駐し、伊豆、相模の武士たちが馳せ参じるのを待ち、土肥実平館で軍議を凝らして、治承4(1180)年8月23日土肥郷を起ち石橋山に陣を敷いた。

頼朝軍の軍容は、総勢3百余騎で主な顔ぶれは土肥実平と子の遠平、実平の弟土屋三郎宗遠とその子や、実平の妹婿の岡崎四郎義実および子の佐奈田与一義忠、実平の本家中村の太郎景平ら、それに北条時政らと頼朝に配所の時から従っていた安達藤九郎盛長に、近江国の源氏一族佐々木太郎定綱らが馳せ参じていた。
  • 源頼朝らを迎える土肥實平夫妻の銅像
(2)頼朝、実平らは五所神社に戦勝祈願した
源頼朝、土肥実平らは出陣に先立ち、五所神社前で、戦勝祈願をした。実平は佩刀を奉納したと言われる。
  • 源頼朝、土肥次郎実平が戦勝祈願した五所神社の拝殿
【土肥椙山(どひすぎやま)(今の湯河原の城山及びその奥)の隠潜】

石橋山の合戦で、源頼朝軍は3百余騎で、平家軍は大庭三郎景親その弟の俣野五郎景久ら、それに熊谷次郎直実、梶原平太景時らが参じて3千余騎であった。頼朝軍は衆寡敵せず、豪雨の中、佐奈田与一義忠が俣野五郎景久に敗れ討ち死にしたのを皮切りに、敗れて土肥実平の先導で24日明け方に土肥郷へ逃れた。しかし、大庭景親ら平家側の再度襲撃で土肥郷の堀口の合戦で源頼朝自ら馬上矢を射、百發百中の腕を披露して戦うも、不利となり、土肥実平の先導で土肥椙山を逃れた。

(1)土肥椙山巌窟(がんくつ)(通称は、しとどの窟(いわや) という)
頼朝、土肥実平らは土肥椙山のなかを逃れ、或る巌窟に隠れた。そのとき頼朝は髻の中から小さな正観音像を取り出してその巌窟の中に安置した。
『吾妻鏡』によれば、治承4年12月25日の条に箱根権現の僧が、その巌窟から頼朝のその小像を探しだして、鎌倉の頼朝に届けたことが記されている。
この巌窟は、神奈川県指定史跡に指定されている。(昭和30年11月1日指定)
この史跡見学は、定期バスの運行が廃止されたので、マイカーで近くの桜郷まで、あるいはハイキングで訪れることが出来る。

頼朝、実平らは、この巌窟に隠れたほか、この山中の大杉の臥木の洞の中にも潜んだとされる。この時、平家側の梶原景時がこの臥木の洞の中の頼朝と目が合ったが、自分の弓に洞の蜘蛛の巣を掛けて、大庭景親にそれを見せて洞の中に人はいないと言った。それでも景親は、弓でその洞をかき回すと山鳩が2羽飛び出したので、景親らは他所を探すことにした。
  • 頼朝らが隠れた、現在の土肥椙山巌窟
【土肥実平の菩提寺・城願寺(じょうがんじ)、土肥祭武者行列のこと】

(1)万年山城願寺
土肥実平の館跡が現在のJR湯河原駅およびその付近である。菩提寺城願寺は駅近くのJR東海道線路を越えて城山の裾に存する。駅から徒歩15分の所である。
実平ら土肥一族の墓所のほかに、その境内には実平が手植えしたビャクシンの樹齢840年を越える巨木が茂っており、昭和14年9月7日付で国の天然記念物に指定さている。
頼朝、実平ら7人が真鶴から安房国へ渡ったことを祈念して、七騎堂を昭和49年3月5日完成落成式を行った。祀られている7人は木彫りで、源頼朝、土肥次郎実平、安達藤九郎盛長、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、田代冠者信綱、新開次郎忠氏である。
  • ビャクシンの巨木と七騎堂
2)土肥祭武者行列
湯河原町では土肥実平を顕彰する土肥会が昭和5年に結成された。この土肥会の主な行事は、頼朝の旗揚げに功績を残したことから、毎年4月第1日曜日を土肥祭と定め、石橋山の戦に参加の武将に扮した武者行列を、五所神社からJR湯河原駅前までの県道で執り行っている。
扮する主な武将は、源頼朝、土肥実平、実平の弟土屋三郎宗遠ら、北条時政、北条小四郎義時、安達藤九郎盛長、佐々木太郎定綱らである。
  • 土肥祭武者行列、土肥実平、源頼朝、北条時政の名乗り場面
  • 土肥祭武者行列、土肥実平、源頼朝、北条時政の名乗り場面
  • 土肥祭武者行列、土肥実平、源頼朝、北条時政の名乗り場面

記事提供:湯河原観光ボランティア

(記事公開日:2022/2/4)

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