伝曽我祐信宝篋印塔
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曽我兄弟の里山を訪ねて ~中世最大の謎の仇討~
領地問題の末、工藤祐経(すけつね)に実父・河津三郎祐泰を殺された曽我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)の兄弟が、源頼朝による鎌倉幕府の草創という激動の中にあって様々な苦難を経験した末、建久4年(1193)5月28日の深夜、雷鳴のとどろく豪雨の最中、ついに仇敵祐経を討ち、自らも壮絶な死を遂げた話である。
潚洒(しゅうしゃ)なJR御殿場線下曽我駅を降りると、プラットホームからは天気が良ければ、富士山の眺望が開け、駅舎を出るとそこは時空を超えた牧歌的な非日常の時が刻まれている。
大鳥居前の交番をゆっくりと進み、曽我兄弟縁の寺「城前寺」を右手に拝見しながら200m程歩くと、縁の地である「五郎沓石」に辿り着く。
さて、縁の寺「城前寺」へ戻ると門扉には千鳥紋と蝶紋が目に入る。これは歌舞伎曽我物語中に、母・満江御前の館で別れの舞の後に、母から各々が賜った直垂(ひたたれ)の図柄が十郎は千鳥、五郎は蝶模様であったと云われたことからである。
城前寺門前を出ると、好天の澄みきった空気の中に富士山が望まれる。この地域の散策は富士山、箱根連山、梅の花、蜜柑等、季節ごとに絶景を楽しめる。
さらに東へ進み坂を上るとそこは高台、民家の塀に「曽我氏館伝承地」の小さい看板が目に入る。新編相模国風土記稿によると、『曽我太郎祐信屋敷跡、方一町許(かずちょうばかり)、内郭の跡あり』とあり、曽我城の規模は記載通りに壮大で、一部の戦国大名の城郭を負かしてしまう。
館近くには「お花畑」なる地名が残っており、「曽我館」の薬草栽培の地と云われている。歌舞伎や浄瑠璃では、幼少の頃の十郎・五郎兄弟がこの場所で相撲を取って遊んでいたとの舞台背景になっている。
そもそも、相撲としたのは、実父河津三郎祐泰は相撲が強く現在でも、決まり手技の「河津掛け」がある。
その先を東に進むと40分程の坂路を登ると、小高い場所に地元の古老が「お塔さん(祐信さんのお塔さん)」と呼び親しまれている「曽我祐信の宝篋印塔」がある。高さ2.75mの基壇と伝わっている。幅は1.21m祐信供養のために建立したと伝わっているが、造塔年代・造立者・石工等は不詳である。鎌倉時代の関東に於ける、基本的様式を備えており、石造美術保存の意味で、昭和36年(1961)3月31日小田原市重要文化財に指定された。なお、この宝篋印塔所有者は曽我氏末裔と云われる神保厚氏である。
宝篋印塔
東へ30分程登ると鎌倉街道に合流し、更に10分程進むと六本松跡と言われる地になり、さらに進むと十郎と大磯の虎御前が忍び逢いの地として伝わっている「忍石」がある。
この付近からの展望は万葉の路の相模の起点「矢倉岳」・富士山・箱根山、東側には相模湾一望でき、非日常を味わえる場所である。一気に下曽我の街に向かって20分程下ると、曽我兄弟の母・満江御前の住まいがあります。曽我別所の親屋敷と呼ばれ、池塘(ちとう)も残っていたが、関東大震災で埋まり、現在その跡地は別所公民館となっている。この場所で、十郎・五郎は富士裾野に向かう際、「名残おしみしこと」として母の前で弟五郎が舞ったと伝えられ、公民館裏の中腹には、十郎・五郎が見送った「見返り稲荷」と云われる祠がある。
本懐と遂げた十郎・五郎の遺髪は従者の鬼王・丹(段)三郎兄弟によって、母親に届けられたと云われている。
ここ曽我別所には戸数は少ないが、武藤・安池・内野などの姓があって、この人々は伊豆の河津の地から満江御前に従って来て土着したという伝えがあり、武藤家墓地には、自然石の満江御前の墓と伝える墓石もある。
こうして曽我兄弟は仇討を成就するのであるが、その真相は今も謎だらけであり、国家的軍事大演習巻狩りの最中、数人で工藤祐経の館を見付けたというのも疑問が残る。実際には、更に広範囲の同調者が一斉に蜂起したのではないだろうか。
歴史書である吾妻鏡も北条執権時代に編纂されている点も、800年という歳月は彼ら中世武士団の面影を曽我の地から消し去ることなく、たくましく生き抜いた中世武士団の屋敷跡がこの地には残っている。曽我の里を訪れたとき、辺り一帯の風景がそれを示してくれるだろう。
記事提供:NPO法人 小田原ガイド協会
(記事公開日:2022/2/4)