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六代御前の墓伝説地

六代御前の墓伝説地

長く語り継がれてきた伝承の地とは?

小高い丘の上、大きな古いケヤキの下にある六代御前の墓碑は、江戸時代、六代の家臣の末裔を名乗る水戸の藩士斎藤仁左衛門及び斎田三左衛門尉平典盛(のりもり)が建てたもので、現在は氏子の方々が毎年、命日の七月二十六日に供養しています。
  • 六代御前塚墓全景
  • 六代御前墓前
入口にある「六代御前最後之故址」の仙台石の碑は、今の京急逗子・葉山駅そばにあったそうです。昭和29年(1954)2月逗子観光協会が建てたもので、昭和36年(1961)に現在地に移設したそうです。
  • 入口にある「六代御前最後之故址」の碑
戦前、逗子で一番賑やかだったのが六代様のお祭りで、一頃は三浦郡で一番といわれたそうです。コレラ等疫病流行時、六代様が疫病除けのハヤリ神となって、東京からも大勢の人がお参りに来られ、魔よけとして一枚一銭でタブノキ(犬楠)の葉を買い求めたことから地所を広げ、余興場の設備をしたので、祭りが盛んになったとのことです。境内にある護摩堂は昭和62年(1987)建て替えられたもので、本尊不動明王像は神武寺から寄進されたものです。
  • 護摩堂

田越川のほとりは刑場であったことから、御最期川とも呼ばれ、六代御前(平高清)は、このほとりで、今から八百年ほどの昔、正治元年(1199)(諸説ある)に処刑されたと伝えられています。
平高清(六代御前)は平維盛(これもり)の嫡男で、平家正統の跡継ぎである。
正盛→忠盛→清盛→重盛→維盛→高清(六代御前)
六代という名は高清の童名で、正盛から数えて六代目にあたるので「六代」と言われました。
文治元年(1185)、平家一門が壇ノ浦の戦いで滅びた時、六代御前は十二才ほどであり、六代御前は母に連れられて京都嵯峨野の近くに隠れたが、鎌倉方に捕らえられてしまいました。普通に考えれば斬首となるところ、京都高雄神護寺の僧、文覚上人が、源頼朝とは伊豆に流された頃からの親しい間柄でしたので、幼い六代を哀れに思い、自分の弟子にするという条件で助命を嘆願してくれました。嘆願がかなえられ六代御前は名を妙覚(みょうかく)と改め、「三位禅師」と呼ばれ、仏道に入って静かに暮らしていました。「吾妻鏡」建久五年(1194)6月15日条」には、頼朝は六条を呼び寄せ、某寺の別当職(高位の僧)にしてあげても良いと行為を示している。頼朝の死後、身請人ともいえる文覚上人が正治元年(1199)三左衛門事件(土御門通親(つちみかどみちちか)襲撃未遂事件)に伴い流罪となると、六代御前も捕まり、「さる人の子なり、さる人の弟子なり、たとひかしらをば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ」(『平家物語』)と謀反の疑いをかけられ、駿河国の住人岡部権守泰綱(やすつな)の手にかかり、ここ田越川の畔で処刑されました。30代の若い命は断たれ、平家の血筋は途絶えました。
六代御前が処刑されたのは、間違いないとされてはいるが、史実として立証される証拠がなく、伝承地として村人に語り継がれ、祀られてきた場所です。

記事提供:葉山町文化財研究会

(記事公開日:2022/2/4)

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