六代御前の墓伝説地
INDEX
長く語り継がれてきた伝承の地とは?
田越川のほとりは刑場であったことから、御最期川とも呼ばれ、六代御前(平高清)は、このほとりで、今から八百年ほどの昔、正治元年(1199)(諸説ある)に処刑されたと伝えられています。
平高清(六代御前)は平維盛(これもり)の嫡男で、平家正統の跡継ぎである。
正盛→忠盛→清盛→重盛→維盛→高清(六代御前)
六代という名は高清の童名で、正盛から数えて六代目にあたるので「六代」と言われました。
文治元年(1185)、平家一門が壇ノ浦の戦いで滅びた時、六代御前は十二才ほどであり、六代御前は母に連れられて京都嵯峨野の近くに隠れたが、鎌倉方に捕らえられてしまいました。普通に考えれば斬首となるところ、京都高雄神護寺の僧、文覚上人が、源頼朝とは伊豆に流された頃からの親しい間柄でしたので、幼い六代を哀れに思い、自分の弟子にするという条件で助命を嘆願してくれました。嘆願がかなえられ六代御前は名を妙覚(みょうかく)と改め、「三位禅師」と呼ばれ、仏道に入って静かに暮らしていました。「吾妻鏡」建久五年(1194)6月15日条」には、頼朝は六条を呼び寄せ、某寺の別当職(高位の僧)にしてあげても良いと行為を示している。頼朝の死後、身請人ともいえる文覚上人が正治元年(1199)三左衛門事件(土御門通親(つちみかどみちちか)襲撃未遂事件)に伴い流罪となると、六代御前も捕まり、「さる人の子なり、さる人の弟子なり、たとひかしらをば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ」(『平家物語』)と謀反の疑いをかけられ、駿河国の住人岡部権守泰綱(やすつな)の手にかかり、ここ田越川の畔で処刑されました。30代の若い命は断たれ、平家の血筋は途絶えました。
六代御前が処刑されたのは、間違いないとされてはいるが、史実として立証される証拠がなく、伝承地として村人に語り継がれ、祀られてきた場所です。
記事提供:葉山町文化財研究会
(記事公開日:2022/2/4)