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早川城跡(城山公園)

早川城跡(城山公園)

中世の綾瀬市域における御家人渋谷重国の貢献

綾瀬市域は古くは相模国高座郡に属していた。この地に、平安後期に成立したのが「吉田荘(渋谷荘)」である。現地を管理したのが秩父平氏の流れをくむ渋谷重国らの渋谷氏一族である。
平治の乱(1159年)に敗れた源氏は逼塞を余儀なくされた。平治の乱で敗れた近江源氏佐々木秀義と定綱以下四人の子息を20年間庇護養育したこと、また平家追討の令旨を受けて治承4年(1180)伊豆の源頼朝が挙兵の準備をしていることが平家方に漏れていることを佐々木氏を通して頼朝に伝えたことは、日本の歴史上において重要なことである。もし情報を伝えていなければ、源頼朝は旗挙げ前に伊豆の平家方伊東祐親等に討たれていたかもしれません。石橋山で敗北した頼朝が、海を渡り房総で勢力を巻き返し、平家方を破り鎌倉に入ると、翌5年には源氏を保護した人物として御家人の列に加えられた。

文治5年(1189)に頼朝が狩りの順見を行った際に、重国の館で一宿し、馬などを献上されている。吾妻鑑に書かれたこれらの記録からも、頼朝の信頼厚い武将になっていたことが伺える。
重国は御家人として、木曾義仲追討や平家追討でも活躍した。一方、渋谷荘では重国の子供である早川次郎高重・吉岡太郎光重らがあり、渋谷氏の惣領であった高重が、鎌倉での役を勤めていた。建保元年(1213)和田合戦では、和田義盛側につき敗北、渋谷荘を没収され大打撃を受けた。その後、宝治元年(1247)の三浦氏が滅ぼされた宝治合戦では北条氏方に立ち新たな所領を獲得した。光重の子の定心は、薩摩国入来院他を拝領した。子弟はこれらの地に下向し、同地を知行して『入来文書(いりきもんじょ)』(入来院家並びに寺尾家等に前後数世紀に渡って歴代相伝された)を伝えた。
綾瀬市に残る渋谷氏の足跡は、「吾妻鏡」や『入来文書』に市域の地名や寺社名を確認することができる。
『入来文書』のうち「渋谷定心置文」から渋谷定心一族が支配した地は早川・吉岡や寺尾・深谷・落合などであった。市内には同時期の遺跡も確認されている。
早川城跡(城山公園)は、目久尻川東岸に突き出た台地の先端に立地する山城で渋谷一族の城跡といわれてきた。現在は城山公園として整備され、曲輪の跡や、土を盛り上げた土塁、物見塚などを見ることができる。昭和6年(1931)、物見塚の上にある「東郷氏祖先發跡地碑」は、日露戦争の国民的英雄だった海軍元帥東郷平八郎が、中世の渋谷一族の流れを汲むことにちなんで建てられたもの。
  • 早川城跡(県指定文化財)(早川城山3-4-1)
  • 物見塚の上にある東郷氏石碑
東郷氏祖先發跡地碑



また、定心が子息に宛てた「渋谷定心置文(おきふみ)」には、早川の五所宮(五社神社)の祭礼や修理は兄弟らが譲渡された土地の分限にしたがって勤めるように記してあり、渋谷一族の精神的な拠り所となった神社であった。
上記文章から鎌倉武士渋谷重国が深く関わった綾瀬市域の神社仏閣を現地で探索されませんか。

  • 五所神社(棟札と古木は市指定文化財)(早川1619)

※綾瀬市史6・10別編 ダイジェストより

記事提供:綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

(記事公開日:2022/2/10)

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