畠山重忠ゆかりの地①
勇・智・仁に富んだ武蔵武士の鑑 ~薬王寺(慰霊堂)と「六ツ塚」~
畠山家は、代々武蔵の国全体の荘園を管理する役目を務める名家で、重忠は今から約850年前の1164(長寛2)年に現在の深谷市に生まれました。源頼朝が伊豆で挙兵すると、16歳で頼朝軍に従い、源平合戦で活躍し鎌倉幕府の創設に貢献しました。
1184(元暦元)年、「一の谷の合戦」では【鵯越えの逆落とし】で、重忠は馬から降りて、愛馬三日月を背中に背負いながら、岩の間を下りていきました。重忠の怪力と馬をいたわる優しさを伝える逸話です。
1184(元暦元)年、「一の谷の合戦」では【鵯越えの逆落とし】で、重忠は馬から降りて、愛馬三日月を背中に背負いながら、岩の間を下りていきました。重忠の怪力と馬をいたわる優しさを伝える逸話です。
「鵯越えの逆落とし」(深谷市 畠山重忠公史蹟公園内)
平家滅亡後、1186(文治2)年4月8日、静御前は頼朝、政子の前で、『吉野山峰の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき』と歌い舞いました。このとき、銅拍子(シンバルのような楽器)を打って舞に合わせたのが、23歳の重忠でした。鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』や江戸時代の浮世絵・歌舞伎では文武両道に優れ、勇・智・仁に富む武蔵武士の鑑として描かれています。横浜市旭区の「マスコットキャラクター(あさひくん)」のモデルにもなっています。旭区のマスコットキャラクター「あさひくん」の重忠公
頼朝は死ぬ間際、重忠(36歳)を枕元に呼び、子供たちのことを託しました。頼朝亡き後、幕府内は権力を巡る争いが激しくなり、1205(元久2)年6月21日「重忠、謀反の疑いあり」とのことで、北条時政は息子の義時、時房へ重忠討伐を命じました。一方、「鎌倉に異変あり」との報を受け、6月19日、重忠は一族郎党130余騎を従え武蔵国菅谷館(秩父・嵐山町)から鎌倉へ向かい、22日に横浜市旭区の鶴ヶ峰付近(鎌倉中の道にあたる)で義時率いる大軍と遭遇し合戦となりました。
この時、重忠は策にかかったと覚悟し、「ここで本拠に戻って兵を出せば、やはり謀反の疑いは真実であったと言われるだろう。」と皆に言い聞かせ、正午より数時間の激戦の果て、愛甲三郎季隆(すえたか)の矢に当たり重忠(42歳)は戦死し、一族郎党みな討ち死にしました。
相鉄線鶴ヶ峰駅から旭区役所方面に歩き、国道16号線を渡り閑静な住宅街に重忠公を祀る慰霊堂の薬王寺があります。昭和の初め重忠公を顕彰する慰霊堂建設運動が始まり、今宿にあった薬王寺(江戸時代初期に創建され明治39年に焼失、一時廃寺)を「六ツ塚」のある現在地に昭和5年、移設・再建されたのが薬王寺です。
境内には、畠山重忠をはじめ、一族郎党の130余騎を埋めたと伝えられる「六ツ塚」があります。土を饅頭のように小高く盛り上げた大小6つの塚です。塚の周辺には供養のため、石の地蔵尊が建てられ、墓前には花などが供えられています。
六ツ塚(中央の角柱は重忠公八百回忌供養塔の角卒塔婆)
供養のため「石の地蔵尊」
わたしが訪れたのは晩秋で、境内の大イチョウの黄葉が美しい時です。ご住職が落ち葉掃除をしておられ立ち話で、「塚の周りを土が流れ出ないように墓石で囲っています。中央に見える高い木柱は角卒塔婆と言い、重忠公八百回忌供養塔です。6月22日の命日には、慰霊祭が開かれ多くの参列者があり、区内の住職も加わり読経が行われ、地域の愛好会による“重忠節”の踊りが奉納されます。」などを伺いました。
記事提供:NPO法人 横浜シティガイド協会
(記事公開日:2022/2/10)