畠山重忠ゆかりの地②
INDEX
鎌倉殿13人の重臣 畠山重忠の史跡
鶴ヶ峰の駅を降りると、商店街が延び、人々が行きかっています。ここが鎌倉時代戦場であったとは思えない、穏やかな日常の風景です。
畠山重忠は、鎌倉時代に活躍した武将で源頼朝に大変信頼され、知・仁・勇を兼ね備えた鎌倉武士の鏡ともいわれた人物でしたが、1205年,幕府の権力争いに巻き込まれ、鶴ヶ峰付近で討ち死にしました。
商店街途中の鎧橋のところに重忠公の史跡の地図があります。その中のいくつかを巡ってみましょう
畠山重忠は、鎌倉時代に活躍した武将で源頼朝に大変信頼され、知・仁・勇を兼ね備えた鎌倉武士の鏡ともいわれた人物でしたが、1205年,幕府の権力争いに巻き込まれ、鶴ヶ峰付近で討ち死にしました。
商店街途中の鎧橋のところに重忠公の史跡の地図があります。その中のいくつかを巡ってみましょう
畠山重忠公地図
区役所裏側のやや小高い場所に「首塚」があります。弓の名手 愛甲三郎季隆の矢にあたり42歳の生涯を閉じた重忠の首が、祭られたところと言われています。「首塚」と書かれた標柱が目印です。七重の石塔が立ち、横に供養のためのお地蔵様を祀った祠があります。現在は、西向きですが、以前は南を向いていたそうです。首塚
「首塚」の斜め前、区役所の駐車場のところに、「首洗い井戸」の標柱が立っています。重忠の首を洗い清めたと言われる帷子川の河原にあった井戸は、現在はなくなり、標柱のみとなっています。蛇行の激しい暴れ川だったため、直線化するなどの改修が行われ、川は遠のいて失われてしまいましたが、以前の河原には直径1メートル程の穴があり、水が湧いていたと言われています。首洗い井戸の標柱
重忠終焉の地を流れていた当時の帷子川は、水深があり川幅も広かったため、武士たちは、鎧を頭上に持ち上げて川を越えたところから「鎧の渡し」と呼ばれていたと伝わっています。現在は、「首洗い井戸」の標柱の横に「鎧の渡し」の標柱のみ立っています。鎧の渡し標柱
水道道が厚木街道を横断する交差点のそば、二俣川と帷子川の合流を望む場所に、「鶴ヶ峰・二俣川合戦の地」の標柱が立っています。ここには、昭和30年6月重忠没後750年を記念して鶴ヶ峰と埼玉県川本村の有志によって「畠山重忠公碑」が建立されました。生誕の地や生涯を終えた地の人たちに慕われてきたことが感じられます。重忠ゆかりの物語は、たくさん伝えられていますが、そのひとつ「さかさ矢竹」も植えられています。以前は、区役所裏側にありましたが、現在は、川が埋め立てられ見ることはできません。重忠が矢にあたった時、『わが心正しかれば、この矢に枝葉を生じ繫茂せよ』と言い、2本の矢を、地面につき立てました。根づいた矢は、毎年2本ずつ増え、茂り続けたと言われています。これらの史跡を巡り、重忠の人柄や鎌倉時代の歴史に触れてみてください。
畠山重忠公碑
記事提供:NPO法人 神奈川区いまむかしガイドの会
(記事公開日:2022/2/10)