畠山重忠ゆかりの地③
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武士の鑑〝畠山重忠〟終焉の地「鶴ヶ峰」
畠山重忠は“仁・智・勇”を兼ね備えた「武士の鑑」と表現され古くは物語、お伽草子、歌舞伎そして浮世絵にも取入れられ、現代でもその略歴・人物像を表す出版物は数多くある、その誠実さ勇猛果敢な人柄がゆえに重忠には多く伝承があり数多いエピソードも残っている。ゆかりの地は29の都道府県に200か所以上あるといわれ、その中でも終焉の地となった鶴ヶ峰をご紹介したい。
重忠が「鎌倉に一大事が起こったから急いで上れ」との偽報の知らせを受け、先に息子の重保を向かわせ後から一族郎従と三日前に小(男)衾菅谷館を立って鶴ヶ峯に到着したのは元久2年(1205)6月22日の正午頃だった。ここではじめて騒動の真相を知ることとなる、息子の重保が謀殺されたこと、北条氏の大軍が向かっているという夢にも思わなかったことが起きていたのだった、家臣はひとまず引き上げて陣容を立直すべきとの意見も出たが、重忠は引返せば謀反を肯定する有実になると、これを聴き入れず「武士は敵に後ろを見せるのは穢い、潔く討死するのが末代までの誉れ」と百三十余騎の家臣と意を決することを誓う。
三万余騎の北条追討軍との戦いは、多勢に無勢で戦う前から勝負は明らかだった、数時間の激闘で重忠は弓の名手愛甲季隆の射た矢で非業の落命、家臣百三十四名も重忠の跡を追い逃げだす者は一人もいなかったと伝わる。
この重忠終焉の地が、一般的に〝二俣川に散る〟などと言われている武蔵国都築郡鶴ヶ峯(現横浜市旭区鶴ケ峰本町)である、鶴ケ峰の駅から数分で「鎧の渡し緑道」という昔は鎌倉武士が鎧を頭上に掲げて川を渡ったという河川を埋めて作られた緑道がある、その先には「首洗い井戸」の跡があり重忠の首を斬り、井戸で首を洗い清め鎌倉に持ち帰ったとされている、更に先には「首塚」があり重忠の首を斬った所と言われている。
また万騎が原は、平安時代に牧(放牧地)のあった地域と言われ北条氏の騎兵が万以上も集まった場所で「万騎が原」と現在の漢字が当てられるようになり、明治25年(1892)に地元有志が重忠を偲んで建立した「畠山重忠遺烈碑」があります。
鶴ケ峰の史跡を記載しましたが、保土ケ谷区・旭区と繋がる帷子川(かたびらがわ)沿いは伊勢神宮の御領地として寄進された「棒谷御厨(はんがやみくりや)」と言われた荘園でした、この「はんがや」が「ほどがや」の地名の由来とも言われています、1969年に保土ケ谷区より分区した旭区は歴史をも語る「NPO法人保土ケ谷ガイドの会」にとって、ホームグラウンドの一環をなしております、是非一度訪れてみては。
記事提供:NPO法人 保土ヶ谷ガイドの会
(記事公開日:2022/2/10)