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畠山重忠ゆかりの地④

畠山重忠ゆかりの地④

畠山重忠(しげただ)と二俣川

【畠山重忠とは】
横浜市の相鉄沿線に二俣川という駅がある。鎌倉時代この辺りの戦いにより、 最期を遂げた鎌倉武士である畠山重忠を取り上げたい。その清廉潔白な性格からか、存命中から「坂東武士の鑑」と称された人物である。
重忠は武蔵武士の棟梁と仰がれた畠山重能(しげよし)の嫡男として長寛2年(1164)に武蔵国畠山(現在の埼玉県深谷市)に生まれる。年代的には2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の主人公である北条義時と同年代の人である。ただし重忠自身は十三人には含まれていない。
重忠の生まれた武蔵国は広大であった。今の東京都と埼玉県、それに神奈川県の一部も含まれていた。畠山氏の所領と館は、代々いまの埼玉県にあった。いまも畠山という小さな地名が存在する。こんにちの埼玉県県北の荒川沿いにある。
畠山氏は所領の低地地帯に多くの水田を有していた。その水田の面積がかなり広かったので、平安末期、その勢力は三浦半島の三浦一族とほぼ同格の勢力を誇っていたといわれている。

【頼朝への臣従】
治承4年(1180)8月の源頼朝の挙兵時点では、重忠は頼朝を討伐すべき平家方にいた。重忠の父、畠山重能が当時、平家の武士の大番役として京都にいたためでもあった。
それが頼朝挙兵後、石橋山の戦いで敗れ、真鶴の海岸から房総半島にのがれたその年の10月、千葉常胤(つねたね)らの在地勢力の支持をうけ頼朝の勢力が拡大するなか、重忠は江戸氏らとともに頼朝の配下に入る。重忠は弱冠十七歳であったといわれている。
重忠は頼朝が挙兵当時、敵方だったことで必ずしも頼朝の信任を得られていなかったとの見方もあるが、重んじられていたことは確かなようだ。たとえば頼朝は時政の娘を重忠にめあわせし、自分と相婿(あいむこ)の間柄になっている。
重忠は音感にもすぐれていた。また器楽にも堪能であった。義経が没落後、その妾であった静御前が鎌倉に呼び寄せられ、頼朝の強引な希望で鶴岡八幡宮にて舞を舞わせられたとき、その伴奏者として、鼓が工藤祐経(すけつね)で、銅拍子が重忠があたった。
文治3年(1187)9月、重忠はにわかに囚人にされ千葉胤正(たねまさ)にあずけられる。
事件は重忠自身の罪ではなかった。重忠はかつて恩賞として遠い伊勢の沼田の地をもらったが、遠国であるため代官を派遣した。その代官が御厨(みくりや)(伊勢神宮領)を侵したということで、神宮側から幕府に訴えがでた。重忠自身のあずかり知らぬことあったが、代官の非は重忠の非とされた。
清廉潔白な士である重忠にとり、罪人の身になったことは、余程こたえたのか、食を断ち、眠らず、衰死しようとしたらしい。これに驚いた千葉胤正は事の次第を頼朝に報告、すぐさま許しがでた。
健康回復のため埼玉県の菅谷の居館に戻った。しかしこれがまた謀反のうわさとなり、自身自刃しようとしたと伝わる。頼朝は重鎮たちを集め、重忠についての意見を聴くが、誰一人重忠を悪くいう人はいなかったとされ、頼朝の疑いは晴れた。
その後、奥州征伐で重忠は先陣の名誉を与えられた。また頼朝の初の上洛のとき、選ばれ先駆する名誉をえた。

【重忠の滅亡】
建久10年(1199)1月13日の頼朝の死後、幕府は北条氏の政治機関と化した。北条氏の当主の時政は、頼朝の死後4年後、武蔵国の大勢力である比企氏を謀反の疑いありとして討伐。その翌々年、武蔵国のもう一方の雄の畠山氏も時政により滅ぼされることになる。
その年、鎌倉で動員令が出され、まずは重忠の息子の重保(しげやす)が由比ガ浜で殺される。重忠はその時、いまの横浜市旭区の二俣川付近まで進んでいた。事の一切を知ることになるが、すでに数万の兵に囲まれていた。重忠はわずか134騎ながら良く戦い全滅した(重忠42歳)。
この元久2年(1205)6月22日の重忠の滅亡によって、頼朝以来の鎌倉幕府が北条氏の私物へと変わった。

  • 畠山重保屋敷跡。鎌倉由比ヶ浜鶴岡八幡宮大鳥居傍ら
  • 六ツ塚。畠山重忠公始め一族郎党134騎埋葬地
畠山重忠公首塚(旭区役所近く)


記事提供:NPO法人 東海道ウォークガイドの会

(記事公開日:2022/2/10)

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