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日向薬師

日向薬師

源頼朝による日向薬師参詣

  • 日向薬師宝城坊本堂(国指定重要文化財)。平成の大修理後
  • 薬師独特の建築様式
  • 鐘楼堂(12本の柱)と幡かけの2本杉は樹齢800年以上(銅鐘は国重要文化財)
鎌倉時代の歴史書、「吾妻鑑」(東鑑)に建久5年(1194年)8月8日、早朝午前4時寅刻に出発し日向薬師に参詣。初代鎌倉将軍右大将源頼朝以下52名の家臣団が軍装の畠山重忠はじめ14名の侍集団。頼朝の太刀持に結城七郎朝光、弓矢持に地元相模国の御家人、愛甲三郎季隆。頼朝様をはさみ後陣の水干、平服の侍22名。この中には大江広元、三浦介良純、和田左衛門尉義盛、梶原平三景時、北条小四郎義時など幕府の重鎮が含まれ、さらに後陣随兵として武田五郎信光はじめ14名の武装侍集団で構成されていました。7年前の文治3年1187年8月15日から鶴ケ丘八幡宮にて鎌倉将軍、東国御家人集団の大事な行事である流鏑馬と放生会が行われていた関係で日帰りの参詣行事となったそうです。
源頼朝・北条政子も参詣に訪れた日向薬師には文化財がいっぱい
源頼朝「日向薬師」参詣の布陣


この参詣の目的は、頼朝様、尼将軍政子の第1子、治承2年(1178年)生まれの、大姫の病気平癒が目的でした。大姫は6歳の時に頼朝様と対立していた、左馬頭木曽源義仲と和睦のため義仲の嫡男源義高、承安3年1173年生まれと婚約。しかし、寿永3年(1184年)1月「宇治川の戦い」近江国粟津で父義仲は敗北。嫡男義高(享年12歳)は人質として鎌倉に在住。大姫は義高を密かに逃そうと計画。義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜け出し、大姫が手配した馬に乗り鎌倉を脱出。しかし、夜になり事が露見、4月26日に武蔵国で追手にとらえられ入間河原で討たれている。処刑されたことに衝撃を受け、大姫は心を病んだと言われています。大姫は建久8年1197年7月、享年20歳で早世している。
 この他にも承元4年1210年6月に尼将軍北条政子が北条時房、大江広元の子、源大夫将監親広などを供して日向山参詣をしています。さらに、建暦元年1211年7月、北条政子は御台所の3代将軍源実朝正室坊門姫と共に参詣している。
 鎌倉時代の創設期、源頼朝、正室北条政子の時代、鎌倉から伊勢原の日向山への参詣が繰り返された。日向薬師は奈良時代の霊亀2年716年に僧行基により開創。熊野権現と白鬚明神の二神より香木が授けられ、その材で薬師如来を刻み、一宇を創建し霊山寺とし元明天皇43代より勅願寺の指定をうけている。本尊薬師如来はカツラ材、一木造鉈彫、鑿あとの残る平安初期の弘仁貞観文化の時代の薬師三尊仏です。総茅葺屋根本堂、本堂内厨子の建築物2件、仏像彫刻6件の23躯、獅子頭2面、銅鐘工芸1件がそれぞれ重要文化財に指定されています。
  • 厨子の中に鉈彫りの薬師三尊(国指定重要文化財)、四天王立像(国指定重要文化財)、十二神将立像(国指定重要文化財)
  • 六仏 薬師瑠璃光如来坐像(国指定重要文化財)※他に日光・月光菩薩立像(国指定重要文化財)あり
  • 獅子頭(国指定重要文化財)
丈六仏 阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)


他にも神奈川県指定重要文化財5件、伊勢原市指定文化財3件などが指定されています。
  • 頼朝が奉納した大太鼓。富士山麓の巻狩りに使用した
  • 12年に一度、寅年に行われる「神木のぼり」と「火渡りの神事」は圧巻

記事提供:いせはら観光ボランティアガイド&ウォーク協会

(記事公開日:2022/2/18)

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