和田義盛旧里碑、和田城址
INDEX
「歴史探訪 三浦・和田の里を訪ねる」(パート1)
先ずは、全く目立たない「安楽寺跡」です。バス停から30mほど先の左手に白い階段があります。上ると、茂った草と手前に庚申塔などがあるだけで往時の姿はありません。この安楽寺は、和田義盛館の鬼門鎮護(北東・鬼の出入り口)として創建されたと伝えられておりますので、位置が大事なのです。長く無住寺で昭和十八年に廃寺となりました。この寺には、義盛も信仰したという平安時代作の本尊木造薬師三尊像(県重要有形文化財)があり、近くの天養院へ移されました。事前にお願いすれば拝見することも出来るかも知れません。
次は、道をバス停の方へ逆もどりです。信号を右折し市道へ入ります。左手に天王社が見えます。境内に大正十年に和田義盛のゆかりの地を永く顕彰するために建立した「和田義盛旧里碑」があります。碑文は三浦英太郎男爵で、紀州三浦家の子孫だそうです。
ここで和田義盛について紹介しましょう。 父は杉本義宗といい、三浦一族の惣領三浦大介義明の長子で、鎌倉の杉本観音で有名な杉本に城を構えていました。母は玉という遊女と言われております。父義宗は1163年安房国(千葉県)で姻戚の安西氏の領地争いの加勢に房総へ渡って、敵方の矢を受け、それがもとで亡くなります。本来なら長男ですので宗家を継ぐはずですが、母の素性が卑なるということで、惣領は義明次男の三浦義澄が継ぎ、義盛は和田に領地を与えられ和田氏を称します。
実は、義盛は弓矢が凄いのです。義盛の遠矢として有名な場面が「平家物語」で描かれております。抜粋ですが見てみましょう。
時は壇ノ浦戦の最中のことです。「両軍が互いに海と陸から兵を進め、戦いはたけなわ、渚に控えた和田義盛は、三町(320m)ばかり沖に浮かぶ平家の軍船めがけて自慢の矢を放ち、その矢を射返せと手招きする。平家がその矢を拾い上げてみると、標準より一束(いっそく)長い十三束で義盛の名が刻まれていた…」当時の弓矢の長さは指一本の幅を一伏(ひとふせ)、四本の幅を一束と数えていました。現在の弓道では、的までは28mだそうです。また、アーチェリーでの的までの距離は70mですから、義盛の矢の距離が平家物語の誇張であったとしても剛腕であったということでしょう。
頼家の代となっても挙兵以来の宿老として十三人合議制のひとりとなり幕政の重鎮でした。
ここで国道134号線へ戻ります。
ここから先は和田の里パート2で紹介しましょう。
記事提供:みうらガイド協会
(記事公開日:2022/2/18)