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白旗神社

白旗神社

「歴史探訪 和田・高円坊・上宮田あたりへ」(パート2)

鎌倉幕府の御家人を統括する名誉ある初代侍所別当和田義盛のゆかりの地を訪ねてみましょう。
出発点は、134号線和田バス停です。横断歩道を渡り、安楽寺跡の向い側の細い坂を上がると天養院に着きます。寺の由来を伝える解説板もあります。石柱の門から境内に入ると左右は墓石群です。正面にはどっしりと斜め横に広がる甍の美しい屋根の本堂が迎えてくれます。正式名、浄土宗五劫山天養院宝泉寺で、創建は永禄二年(1559)の室町時代後期とされております。本堂には和田義盛が信仰していた仏様とも伝わっている安楽寺(廃寺)の本尊薬師三尊(県重要有形文化財)があり拝見することができます(要予約)。この仏像は平安期の作とされ、三浦半島では最古、県内でも屈指の古仏といわれています。本尊薬師像は義盛の身代わり薬師といわれていて、和田合戦のおり、負傷した義盛が痛さを感じず不思議な思いをした。そのとき薬師像が顔から胸に傷を負い、血が流れたという。これを見て一同薬師の加護を念じ大いに戦ったと伝えられています。
  • 天養院本堂
次に正門を出て右手に7,8軒先の住宅の間の舗装されていない細道を下って、突き当りを右に歩いて行くと「神明白旗神社」拝殿・本殿横に出ます。明治の神社合祀令により矢作(やはぎ)の神明社と合祀され「神明白旗神社」となりました。扁額は横須賀鎮守府長官を務めた上村彦之丞中将(のち大将)の書ということです。
 1213年「建保の乱(和田の乱)」で一族が北条氏により、滅ぼされます。後日、村の人たちは、義盛の善政をしのび、源氏にちなんで、その旗印である白旗の社を五十年後に建て祭神として祀ったと伝わっております。
 急な階段上から眼下に目を向けると、広々とした畑の田園風景が広がっています。もともと和田は三浦半島有数の穀倉地帯なのですが、そこは江戸期に開拓された入江新田です。季節ごとの野菜が一面に植えられている三浦らしい風景といえましょう。
 階段を下りると、右手に庚申塔群と「神明・白旗神社」の解説板があります。解説板には、義盛が戦勝のとき「初声(はっせ)」を舞ったことが、地名の由来とも書いてあります。
  • 神明白旗神社鳥居と階段
  • 本殿・幣殿・拝殿の権現造
次は、階段を背に左へ行きます。右手には畑地を見ながらやや広い道を約1kmゆったり歩きますと、両側はコンクリートですが庄司川という川に出ます。橋の手前の川沿いの細い道に入り100m程歩くと、また橋があり、解説板が見えます。義盛ゆかりの「わくり井戸」です。義盛が身を清めたと伝わる井戸は石碑で祀られております。
 次は、車の往来のある市道へと進み、気をつけて向こう側へ渡り、左へ進みます。数十メートル先を右へ入り坂道を上がると庚申塔群が迎えてくれます。そこから右手に進み、先の分岐点を右にとると、その先は室町後期に山王社として創建された日枝神社です。この辺りは最も高い台地です。相模湾、富士山が見られ素晴らしい眺望です。
 目の前を見ると畑のなかにポツンと墓石が見えます。朝盛塚です。和田義盛の孫です。奥には大正十年に三浦基次子爵が建立した石碑もあります。石碑には、祖父和田義盛の乱では、生き延びて高円坊と号し、この地で亡くなったとありますが、史実では朝盛が号したのは実阿弥陀仏といいます。和田の乱では、和歌を通じて近習として仕えていた将軍実朝に弓を弾くのは耐えられず出家しました。京に潜伏し、承久の乱では後鳥羽上皇方に与しました。その後、京で捕らえられてしまったと吾妻鏡は記しているそうです。なお、高円坊の地名は鎌倉時代にはなく、江戸初期の高円坊という寺によるとのことです。
 次は、台地の農道を進みます。300mほど歩くと横に伸びた農道に突き当たります。左手にとり200m程歩くと、右に下る道があり、ここを下って行きますと「浄土真宗和田山来福寺」です。石の山門を入ると、正面には銅葺きの雄大な本堂の屋根と三浦氏の家紋が目に入ります。義盛ゆかりの寺です。静かに参詣し、帰途へ、山門前の道を上がると県道へ出ます。右へ進み終点の三浦海岸駅で、歴史探訪の終わりとします。ぜひ、散策してみてください。
朝盛塚
  • 来福寺山門

記事提供:みうらガイド協会

(記事公開日:2022/2/18)

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