孫佛山 観音院
INDEX
秦野の上地区は源頼朝・政子、曽我兄弟の伝承の地
秦野市の大半が古来大住郡であるのに対し、上地区は秦野市の西端四十八瀬川の西側に位置し、足柄上郡大井庄であった。地域に源頼朝、政子、曽我兄弟に関する伝承が多く残る。
【観音院】
古くは比叡山末の慈眼寺と称し頼朝の頃から天台宗の寺であった。1189年(文治5年)僧高歓が石孫仏の霊感により塔ヶ嶽に祠を立て雨乞い護摩修行を行い、孫佛山 慈眼寺として開山。戦国時代の興隆、衰亡を経て1662年(寛文2)住僧要海が上野の寛永寺末として再興、現在に至っている。頼朝座像を安置する。
~新編相模国風土記稿~
観音院 孫佛山 寺傳に、村北三里余山境に至りて、塔ノ澤と云に石佛あり、石孫佛と号す、当寺此石佛に因ありて、山号すと云、其故詳ならず、石佛の事は玄倉村條に出せり、福聚寺と号す、天台宗、東聚山末、往古は比叡山の末にて、慈眼寺と称せり、起立の年代詳ならず、鎌倉将軍頼朝の頃より在しと伝ふ、
【頼朝塚はん】
三廻部(みくるべ)の田畑の中に「頼朝はん」と呼ばれる石碑がある。源頼朝を慕う里人が築いたと言い伝えられている。根府川石を使い「武皇嘯源大居士」の戒名らしき文字と頼朝の亡くなった年が記されている。ここに頼朝の座像があったが、今は観音院に安置されている。また三廻部には、妻政子の安産祈願を伝える伝説が残り、頼朝を慕う村人たちがいたことを感じさせる。
※源頼朝の正室政子の安産祈願のため相模十数社寺を選び、使者に拝観させたとのくだりが吾妻鏡に出てくるが、秦野周辺では尾尻八幡宮、三廻部から川村山を越えた弥勒寺(維新後は寄神社)へ祈願がなされたとされている。
~新編相模国風土記稿~
源頼朝墓 是は追慕せし者の特に築きし所なるべし、根府川石を以て碑を建つ、長二尺四寸、碑面に武皇嘯源大居士尊儀、正治元巳未年正月十三日、鎌倉頼朝公と彫る、碑石は最近世建たる物と見ゆ、四辺古木繁茂して、物ふりたる地なり、
三廻部(みくるべ)の田畑の中に「頼朝はん」と呼ばれる石碑がある。源頼朝を慕う里人が築いたと言い伝えられている。根府川石を使い「武皇嘯源大居士」の戒名らしき文字と頼朝の亡くなった年が記されている。ここに頼朝の座像があったが、今は観音院に安置されている。また三廻部には、妻政子の安産祈願を伝える伝説が残り、頼朝を慕う村人たちがいたことを感じさせる。
※源頼朝の正室政子の安産祈願のため相模十数社寺を選び、使者に拝観させたとのくだりが吾妻鏡に出てくるが、秦野周辺では尾尻八幡宮、三廻部から川村山を越えた弥勒寺(維新後は寄神社)へ祈願がなされたとされている。
~新編相模国風土記稿~
源頼朝墓 是は追慕せし者の特に築きし所なるべし、根府川石を以て碑を建つ、長二尺四寸、碑面に武皇嘯源大居士尊儀、正治元巳未年正月十三日、鎌倉頼朝公と彫る、碑石は最近世建たる物と見ゆ、四辺古木繁茂して、物ふりたる地なり、
なお、三廻部から不動院へ向かう途中の小原の地蔵堂の庚申塔に「 右 三廻部 村道 左 やま道 みろくじ道」と表示が残る。
【柳川山 不動院】
天台宗の寺で白體不動尊が祀られる。観音院から1時間余り歩いたところに建つ。開創は716年(霊亀2年)、開山は行実阿闍梨と伝えられ、江戸時代には本堂や庫裡を持つ伽藍があった。
本尊は体が白い不動尊である。鎌倉時代に曾我兄弟が、父の仇を討つために祈願に通ったといわれる。兄の曽我十郎が捧げた願文は、三廻部の観音院に保管されている。
白體不動尊と曽我兄弟の願文(無断転載不可)
不動院の裏手の「カマの沢」は、曽我兄弟が不動院に参詣した後、清水の湧き出るこの沢で炊事をして弁当を作ったといわれる。また上小学校の南の高台から鎌倉が遠望できることから「鎌倉林(べーし)」、不動院北側高台も鎌倉が望遠できることから「のぞき」といわれる。
記事提供:秦野市観光ボランティアの会
(記事公開日:2022/2/25)