小道地蔵寺屋敷堂跡、謡坂
INDEX
源頼朝の旗揚げに力を尽くした土肥実平
【頼朝、実平ら小道地蔵堂(しょうどうじぞうどう)に隠れ助かる】
(1)小道地蔵堂跡
頼朝、実平らは、臥木の洞で一難を逃れたが、大庭景親の手の者が迫っていた。実平が見渡すと、小道地蔵堂があり、僧純海に頼み床下へ隠してもらった。
そこへ景親らがやって来て、純海に頼朝らが助けを求めて来なかったかと問い詰め、それでも純海は、頼朝らのことは口をつぐみ、責め立てられて気を失ってしまった。景親らは、純海が本当に知らなかったのかと思い、真鶴の方に見当をつけて捜索を続けた。
(1)小道地蔵堂跡
頼朝、実平らは、臥木の洞で一難を逃れたが、大庭景親の手の者が迫っていた。実平が見渡すと、小道地蔵堂があり、僧純海に頼み床下へ隠してもらった。
そこへ景親らがやって来て、純海に頼朝らが助けを求めて来なかったかと問い詰め、それでも純海は、頼朝らのことは口をつぐみ、責め立てられて気を失ってしまった。景親らは、純海が本当に知らなかったのかと思い、真鶴の方に見当をつけて捜索を続けた。
(2)湯河原町吉浜の小道地蔵堂
のち頼朝は鎌倉殿となって、この小道地蔵堂で命を助けられたこと忘れず、純海に小道山頼朝寺(しょうどうさんらいちょうじ)と号する堂宇を寄進したが、この堂宇は文永2(1265)年正月14日に火災にあい一切が灰燼に帰したという。村人により湯河原町吉浜に享保年間(1717年頃)に小道地蔵堂が再建されて、現在に至っている。
のち頼朝は鎌倉殿となって、この小道地蔵堂で命を助けられたこと忘れず、純海に小道山頼朝寺(しょうどうさんらいちょうじ)と号する堂宇を寄進したが、この堂宇は文永2(1265)年正月14日に火災にあい一切が灰燼に帰したという。村人により湯河原町吉浜に享保年間(1717年頃)に小道地蔵堂が再建されて、現在に至っている。
【実平は頼朝の前で「焼亡(じょうもう)の舞」を舞う】
(1)実平の「焼亡の舞」
実平の案内で真鶴へ向かうとき、平家方の伊東祐親が実平の館に火をかけている炎と煙がみえた。実平は頼朝を勇気づけるため、舞を舞ったという。これが『源平盛衰記』に記されている「焼亡の舞」である。昭和42年に平泉中尊寺の「延年の舞」を参考に復元され、焼亡の舞保存会が練習を重ねて、毎年4月第一日曜日に開催される土肥祭や武者行列で披露され、三嶋大社・鎌倉鶴岡八幡宮でも奉納されている。真鶴町に「謡坂(うとうざか)」の石碑が建っている。
(1)実平の「焼亡の舞」
実平の案内で真鶴へ向かうとき、平家方の伊東祐親が実平の館に火をかけている炎と煙がみえた。実平は頼朝を勇気づけるため、舞を舞ったという。これが『源平盛衰記』に記されている「焼亡の舞」である。昭和42年に平泉中尊寺の「延年の舞」を参考に復元され、焼亡の舞保存会が練習を重ねて、毎年4月第一日曜日に開催される土肥祭や武者行列で披露され、三嶋大社・鎌倉鶴岡八幡宮でも奉納されている。真鶴町に「謡坂(うとうざか)」の石碑が建っている。
【頼朝、実平らは真鶴から安房へ渡る】
(1)頼朝、実平らは、真名鶴崎(真鶴)から安房へ渡る
頼朝、実平らは27日の夜を真名鶴崎の「しとどの岩屋」で過ごし、28日に土地の住人に小舟を操船させて無事に安房へ渡った。
(1)頼朝、実平らは、真名鶴崎(真鶴)から安房へ渡る
頼朝、実平らは27日の夜を真名鶴崎の「しとどの岩屋」で過ごし、28日に土地の住人に小舟を操船させて無事に安房へ渡った。
※添付写真は、湯河原観光ボランティア会員が撮影したものであり、本編に掲載することに同意を得ている
記事提供:秦野市観光ボランティアの会
(記事公開日:2022/2/25)