畠山重忠ゆかりの地⑤
悲劇の武蔵武士・畠山重忠(はたけやましげただ)1164-1205
その人物像は『吾妻鏡』で高く評価する記述があり、江戸時代には伝説化・超人格的な人物として、歌舞伎や浄瑠璃など芝居に度々登場します。重忠は文武両道・謹厳実直・清廉潔白、人望厚く温厚にして勇猛な一面を持つ武蔵武士の典型、そして超人的能力をもつ悲運の人物として今日まで多くの伝承・逸話を伝えています。
伝承地は北海道から鹿児島までにおよびます。埼玉県65ケ所・東京都32ケ所・神奈川県43ケ所、関係する寺社91ケ所・(城館23ケ所・墓と供養塔7ケ所あると言われています。神奈川県では第一に二俣川(旭区)周辺ですが、釜利谷(金沢区)にもあります。金沢から鎌倉に通じる古道「白山道」沿いに、東光禅寺があります。
重忠は、武蔵国男衾郡(おぶすまぐん)畠山(埼玉県深谷市)出身です。治承4年(1180年)源頼朝の伊豆挙兵の時、父重能(しげよし)は在京中で、17歳の重忠は頼朝方の三浦氏(衣笠城)を攻めています。頼朝が房総半島を経て武蔵国に至る時、隅田川の石浜にて帰順しました。頼朝の相模入国の時は、先陣を努めました。奥州藤原氏との合戦そして二度の頼朝上洛でも先陣を努め、頼朝の信頼を得ています。
源義仲・平家追討に活躍し、摂津国一の谷合戦(神戸市)「鵯越の逆落(ひよどりごえのさかおとし)」で愛馬三日月を背負って断崖を下った話は有名ですが、創作でしょう。
元久2年(1205) 6月、北条時政は謀反の咎で重忠を討つよう命じました。前年京都にて重保は時政の女婿・平賀朝雅と口論をしています。武蔵国を掌握したい時政にとって重忠は邪魔な存在でした。6月22日朝重保は、由比ヶ浜にて三浦義村の手によって討たれました。武蔵国菅谷(すがや)(埼玉県嵐山町)を出発した重忠ら134騎は、22日昼ころ二俣川にて北条義時・時房・三浦義村・和田義盛らの大軍と対峙しました。奮戦しましたが夕刻全滅しました。重忠は愛甲季隆の射った矢に当たり討死、罪なくして42歳の生涯でした。
元暦元年(1184)11月、鶴岡八幡宮にて静御前が舞を披露の時、銅拍子で伴奏を努め、また文治2年(1186)4月八幡宮別当坊にて音曲(今様)を披露しています。武勇だけでなく教養人・文化人でもありました。
記事提供:NPO法人 横濱金澤シティガイド協会
(記事公開日:2022/2/25)