枡形城跡
INDEX
川崎の御家人稲毛三郎重成ゆかりの地を訪ねて
川崎歴史ガイド「津久井道と枡形城址」のパンフレットを片手に稲毛三郎重成ゆかりの地を訪ねてみました。
【くらやみ坂】
小田急線向ヶ丘遊園駅から五反田川沿いに西に向かって5分ほど歩いていくと、左手に急な登り坂が現れます。枡形城址へ向う坂道で、昔、この坂は両側から生い茂る木々に陽光がさえぎられ、昼なお暗い坂道だったことから、土地の人々はここを「くらやみ坂」と呼んできました。
【くらやみ坂】
小田急線向ヶ丘遊園駅から五反田川沿いに西に向かって5分ほど歩いていくと、左手に急な登り坂が現れます。枡形城址へ向う坂道で、昔、この坂は両側から生い茂る木々に陽光がさえぎられ、昼なお暗い坂道だったことから、土地の人々はここを「くらやみ坂」と呼んできました。
くらやみ坂を登っていくこの道は、もともと枡形道と呼ばれ、頂上にあった鎌倉時代の山城、枡形城への道として開かれたもので、いわば大手門への道でした。枡形城争奪戦のたびに戦支度の武士たちが慌ただしくここを往来したのは800年も昔のことでした。
【松本山広福寺】
くらやみ坂を少し上ると右側に広福寺があります。広福寺は、平安時代初期に開かれ、鎌倉時代に稲毛三郎重成によって中興されたと伝えられている真言宗のお寺です。
寺号碑を左手に境内に向って歩いて行くと右側の門柱に「稲毛領主 稲毛館跡」と標示してありました。
境内に入るとまず、右に鐘楼堂、左に西を向いて本堂がありました。そして、本堂を正面にするかのように山門が建っていました。本堂には桃山時代の木彫の重成座像と一族の位牌が祀られています。更に正面の階段を上ると観音堂がありました。観音堂の後ろは墓域になっていて、稲毛三郎重成の墓と伝わる五輪塔が静かにたたずんでいました。
真偽のほどはわかりませんが、重成は、この寺を館として使ったのではないかともいわれていますが、これらを証明できる史料が、ないのが実情です。五輪塔についても同様です。寺号碑を左手に境内に向って歩いて行くと右側の門柱に「稲毛領主 稲毛館跡」と標示してありました。
境内に入るとまず、右に鐘楼堂、左に西を向いて本堂がありました。そして、本堂を正面にするかのように山門が建っていました。本堂には桃山時代の木彫の重成座像と一族の位牌が祀られています。更に正面の階段を上ると観音堂がありました。観音堂の後ろは墓域になっていて、稲毛三郎重成の墓と伝わる五輪塔が静かにたたずんでいました。
真偽のほどはわかりませんが、重成は、この寺を館として使ったのではないかともいわれていますが、これらを証明できる史料が、ないのが実情です。五輪塔についても同様です。
境内に入るとまず、右に鐘楼堂、左に西を向いて本堂がありました。そして、本堂を正面にするかのように山門が建っていました。本堂には桃山時代の木彫の重成座像と一族の位牌が祀られています。更に正面の階段を上ると観音堂がありました。観音堂の後ろは墓域になっていて、稲毛三郎重成の墓と伝わる五輪塔が静かにたたずんでいました。
真偽のほどはわかりませんが、重成は、この寺を館として使ったのではないかともいわれていますが、これらを証明できる史料が、ないのが実情です。五輪塔についても同様です。寺号碑を左手に境内に向って歩いて行くと右側の門柱に「稲毛領主 稲毛館跡」と標示してありました。
境内に入るとまず、右に鐘楼堂、左に西を向いて本堂がありました。そして、本堂を正面にするかのように山門が建っていました。本堂には桃山時代の木彫の重成座像と一族の位牌が祀られています。更に正面の階段を上ると観音堂がありました。観音堂の後ろは墓域になっていて、稲毛三郎重成の墓と伝わる五輪塔が静かにたたずんでいました。
真偽のほどはわかりませんが、重成は、この寺を館として使ったのではないかともいわれていますが、これらを証明できる史料が、ないのが実情です。五輪塔についても同様です。
木造稲毛重成像(6世紀広福寺蔵)
広福寺は、一時期廃寺となっていたのを、江戸時代の初めに僧・定賢によって再興されたといわれています。この寺には、神奈川県の重要文化財に指定されている地蔵菩薩立像(平安時代後期)や聖観音菩薩立像(鎌倉時代末期)などが現存しており、古くから存在した由緒あるお寺であったことは間違いないことと思われます。
【枡形城址】
広福寺をあとにして、いよいよ枡形城址に向います。広福寺から山頂にいたる坂道は切通し状になっていて、山頂に達する手前はやせ尾根状の険しい道になっていたと思われます。
枡形城は、鎌倉時代初期に稲毛重成が多摩川を堀と見立て、広福寺を居と定めて、枡形山の山頂を詰めの城(山頂に柵などを巡らし、物見櫓がある程度の小規模な山城)として築城したのではないかと伝えられています。
こ枡形山の山頂は、海抜約100m、平らで東西130m、南北80mほどの四角い形をしています。山頂から、北の方には多摩川の流れと武蔵野台地を、西の方には秩父、丹沢、富士山、箱根の山々を望むことができます。
こ枡形山の山頂は、海抜約100m、平らで東西130m、南北80mほどの四角い形をしています。山頂から、北の方には多摩川の流れと武蔵野台地を、西の方には秩父、丹沢、富士山、箱根の山々を望むことができます。
「枡形」の名前は枡のような形という意味から付けられたようです。現在は緑地公園となっていて、城址の碑が北西に建っていますが、公園整備のため整地され、残念ながら現在遺構は残っていません。
枡形山城址の石碑
【稲毛三郎重成の最期】
元久2(1205)年6月、畠山重忠とその息子の重保が謀反をたくらんでいるとして殺害されるという事件が起こりました。「畠山重忠の謀反」は事実無根だったのに、重成がおとしいれたのだとされて、翌日、経師ヶ谷の館を包囲され、重成とその子小沢重政、弟の榛谷重朝らが、殺害されてしまいました。重成一族の死骸は経師ヶ谷の近い所に葬られたと推測しますが、今となってはその痕跡すら伺い知ることはできません。
その後、時政の陰謀が発覚し、この一連の事件の結果、武蔵国の武士の最有力武士である畠山重忠一族、稲毛重成・榛谷重朝・稲毛重成ら一族は、北条氏によって踊らされ、用済みとみるやたちまち葬られてしまうという、哀れなやくまわりを演じさせられたのでした。
記事提供:NPO法人かわさき歴史ガイド協会
(記事公開日:2022/2/25)