河村城跡
INDEX
河村城と河村氏のこと
駅から河村城を目指して10分程歩くと城入り口です。そこから急登を歩くこと20分、本城郭直下の小郭と茶臼郭の間の壮大な畝堀に目を奪われるでしょう。
ただし、この畝堀は時代を下ること410年、戦国期、小田原北条氏時代のものです。河村城は、戦略的に需要な意味を二度持つ城だったのです。一度目は鎌倉時代から南北朝にかけて、そして二度目は戦国時代です。
鎌倉時代の話に戻りましょう。
鎌倉時代、この地の領主は河村氏当主河村三郎義秀です。義秀は頼朝の石橋山合戦の時、源氏側には立ちませんでした。なぜか?義秀の本家である波多野氏が大庭氏と誼(よしみ)を通じていたので、波多野氏一族は大庭景親の下で頼朝追討の立場をとるほかはなかったのです。結局この戦いが契機となり『吾妻鏡』治承四年十月二十三日の条に「河村三郎義秀は河村郷を接収され、大庭景能に預けられた」とあります。
このあとすぐに大庭景親は斬首され、義秀にも処刑命令が出るのですが、波多野氏一族に同情的な大庭景能に匿われて一命をとりとめることとなりました。
文治五年七月に頼朝は奥州藤原氏の征討軍を起こします。この頼朝大手軍中に河村義秀の弟千鶴丸が十三歳ながら従軍していました。『吾妻鏡』八月九日の条に阿津賀志山の戦いでは手柄をたてたことが記されています。また八月十二日になって河村千鶴丸の功名を知った頼朝が千鶴丸を呼び父の名を問うたところ、「秀高の四男」と答えたのでその場で河村四郎秀清と名乗らせました。この秀清が奥州河村氏の祖になり、名誉を回復して幕府に出仕するようになりました。
また、『吾妻鏡』建久元年八月十六日の条には、鎌倉鶴岡八幡宮で頼朝も出席する流鏑馬の話が見られます。このとき、射手二人が欠員となり、そこで景能が「去る治承四年に景親に味方した河村三郎義秀を囚人として景能が預かっていますが義秀は弓の名手なので召し出しされてはいかがでしょうか」と伺いを立てました。頼朝は「流鏑馬で妙技を見せたなら罪を赦そう」と言い、頼朝が命ずるままに弓矢の妙技を披露したので、義秀は赦免となり、再び河村郷の本領を安堵されることとなったのです。
先ほど見た畝掘りを回り込むように歩くと本城郭に到着しますが、この郭も小田原北条氏の手になるもので、鎌倉時代の河村城は説明板にある大庭郭と近藤郭であるというのが定説になりつつあります。
河村城から15分程、文覚上人ゆかりの名瀑「洒水の滝」まで歩くのもまた楽しい思い出になるでしょう。桜の時期は山北駅まで戻り、駅構内にある蒸気機関車通称デコニのD52型機関車を間近に見学するのもおすすめです。ホーム先の桜花のトンネルを通過する電車を見る人、撮影する人で山北駅は終日にぎわい、撮り鉄フアン必見の場所となっています。
記事提供:NPO法人小田原ガイド協会
(記事公開日:2022/2/25)