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江の島

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頼朝公も 戦勝祈願のために訪れた弁財天の島

江の島を訪れて仲見世通りの賑わいを抜け、折り重なる石段を登りきると、江島神社の辺津宮(へつのみや)があらわれます。鎌倉時代、宋から帰国した良真(りょうしん)というお坊さんの献言で三代将軍実朝公が創建したと伝えられています。境内東側に「宋国伝来(そうこくでんらい)の碑」という石碑があり、今は摩滅してしまいましたが「大日本国江島霊迹建寺之記」と刻まれていたそうで、『江島縁起絵巻(えのしまえんぎえまき)』という巻物にはこうした由来が描かれています。
江の島といえば弁天様を思い浮かべます。境内の奉安殿には「八臂弁才天(はっぴべんざいてん)」と「妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)」、二体の弁財天像がお祀りされていますから、お正月には七福神巡りの人々で賑わいます。江戸時代、江の島が福徳繁栄を願う弁財天詣での人々でにぎわったことは、浮世絵などにも多く描かれています。
そして、中津宮(なかつのみや)を訪れると、技芸の上達や、時には新鮮な海の幸も愉しみにこの島を訪れる人々が多かったことがわかります。境内からの眺望も見事ですから、江島詣での自慢話にもきっと織り込まれていたことでしょう。
中津宮からコッキング苑(後述)をへてさらに進めば奥津宮(おくつのみや)に至るのですが、その参道には江戸大百味講(だいひゃくみこう)の人たちが寄進した常夜灯が並んでいます。百味講というのは元祖グルメツアーだったのかも・・・そして、これに続く石造の鳥居は、かたわらの説明板に「伝頼朝寄進の大鳥居」と表示されています。

これがその鳥居なのかどうかについてはっきりしたことはわかりませんが、『吾妻鑑』に、治承4年(1180)石橋山で挙兵した源頼朝公が鎌倉に入り2年後の寿永元年(1182)奥州藤原秀衡(ひでひら)調伏祈願のため文覚上人に命じて江の島に勧請した辨才天の供養を行ったこと、そして鳥居を寄進したことなどが述べられています。この当時、弁才天はむしろ武神としての霊験を求められていたのかもしれません。

 ところで、この時に伴った北条時政以下錚々たる武将の中に足立遠元の名前も並んでいます。この足立遠元という人物は武蔵国足立郡を拠点とし、頼朝公の挙兵以来これに従ってきた武士ですが、当時としては珍しく文武両道の才能があったらしく、13人の合議制に加わったのは公文所の寄人、むしろ文官としての活躍が期待されていたのではないかとみられています。しかし、その後のことはよくわかっていません。

 さて、最後にもう一つおまけ・・・で、見どころをご紹介しましょう。

古くから人々の信仰を集めてきた江の島ですが、明治中頃に大きな変化が加わりました。サムエル・コッキング氏という英国商人が邸宅を構え、植物園を建造したのです。当時の最先端技術を駆使した煉瓦造温室も関東大震災で倒壊してしまいましたが、その基礎部分や地下構造物が発掘されました。明治中頃に建造された温室のなかでは現存する唯一の貴重な遺構で、展示施設が設けられて見学できるようになりました。ぜひこちらも訪ねてみましょう。

記事提供:江の島・藤沢ガイドクラブ

(記事公開日:2022/3/11)

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