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【鎌倉殿×13人の御家人たち】大河ドラマに登場した「ゆかりの地」

【鎌倉殿×13人の御家人たち】大河ドラマに登場した「ゆかりの地」

ついに始まりました
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」!
ドラマの舞台は、
実際にどんな場所だったのか!?
こちらでチェック!

INDEX

第1回 1月9日放送分【平穏な生活が一変!流罪人・源頼朝をかくまった北条家は一体どうなるのか?】

北条家で宴が開かれている中、義時は兄の宗時から衝撃の事実を聞かされます。流罪人の源頼朝を家にかくまっている、と。頼朝は、義時の幼馴染である八重と恋仲になり男児も生まれていましたが、平清盛から頼朝の監視を任されていた八重の父・伊東祐親から追われている身。もし知られたら大変なことになります。

義時の心配は現実となり、祐親は北条家を捜索するためにやって来ました。絶体絶命の状況で義時の姉・政子の機転により何とか屋敷を脱出しますが・・・

Column

登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

史跡北条氏邸跡(円成寺跡)

北条氏邸は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。北条氏邸跡が位置する守山は北条氏の本拠地で、鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていました。1992年から1993年にかけて行った発掘調査で平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏の館があることが確認されました。
1333年、鎌倉幕府の滅亡後に鎌倉から韮山に戻った北条一族の妻や娘たちが館の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。
北条氏邸跡は北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡と北条氏滅亡後の円成寺跡が発見され、北条氏の興亡を物語る遺跡として国指定史跡に指定されました。


住所:静岡県伊豆の国市寺家13
駐車場:あり(17台+車いす1台)
連絡先:055-948-1428(伊豆の国市文化財課)

第2回 1月16日放送分【新たなバディの誕生!頼朝の思いを受け止めた義時はどう変わっていくのか?】

北条家と伊東家が一触即発の中、平清盛を後ろ盾に相模の武士を束ねる大庭景親が仲裁に現れました。そして、八重と縁を切ることを条件に頼朝を北条家で預かることになります。
宗時の期待をよそに挙兵しないと言う頼朝。そんな頼朝と政子の仲を心配した義時は、二人が出かけた湯河原へ向かいます。そこで頼朝に「いずれは挙兵して世の中を正す。それには北条家の後ろ盾が必要だ」と本心を明かされた義時は、その威厳に圧倒され思わず「ははーっ」と返事をするのでした。

Column

登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

蛭ヶ島

平治の乱に敗れた源頼朝は、平清盛の継母・池禅尼の命乞いによって伊豆の蛭ヶ島に配流されました。
永暦元年(1160)2月の14歳から、治承4年(1180)8月に旗挙げする34歳までの20年間をこの地で過ごしたといわれています。流人とはいえ、その監視は比較的ゆるやかであったといわれており、伊東祐親の娘・八重姫との恋、北条政子との結婚のほか、箱根・伊豆山・三嶋の三社詣、天城山での巻狩りなどの伝承も残されています。当時の蛭ヶ島は洪水の度に田方平野を縦横に流れていたであろう狩野川の中洲、あるいは湿田の中の微高地(田島)であったと考えられます。 江戸時代の末に伊豆の地誌「豆州志稿」を著わした秋山富南が、頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(市指定文化財)が立っています。
周辺は公園として整備され、頼朝と政子が富士に向って立つブロンズ像「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」が建てられました。


住所:静岡県伊豆の国市四日町12
駐車場:あり(14台+大型2台)
連絡先:055-948-1468(伊豆の国市都市計画課)

第3回 1月23日放送分【夢に後白河法皇が登場!周囲の声に押され、ついに挙兵を決意した頼朝は・・・】

頼朝と政子の間には大姫が誕生し、穏やかな時間が流れていました。
そんな中、頼朝の叔父・行家が、平清盛に反旗を翻した後白河法皇の息子・以仁王の令旨を携えて北条家に訪れました。謀反は結局は失敗に終わりましたが、平家への反発は大きくなっていきます。

勝てる保証がなければ挙兵しないという頼朝。義時は伊豆の国衙にあった木簡から兵力を割り出し、勝機はあると伝えます。後白河法皇からの助けを求める密旨も出てきて挙兵に必要な大義名分も揃い、ついに頼朝は宗時に挙兵の準備を命じました。

第4回 1月30日放送分【矢は放たれた!義時や宗時が兵集めに苦戦するも、ついに源平合戦が始まる】

いよいよ挙兵することになった頼朝たち。まずは伊豆国の目代・山木兼隆を討つべく戦の準備を始めますが、強大な平家の威光の前に、思ったよりも兵の数が集まりません。

頼朝や義時たちが兵集めに奔走する中、伊東祐親や大庭景親に挙兵することが伝わってしまいます。中止も考えていた頼朝ですが、八重からの情報により、予定通り挙兵することに。

北条宗時と坂東の武士たちは堤信遠の館へ向かいます。そして、佐々木常隆が放った矢により、源平合戦が始まるのでした。

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登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

三嶋大社

創建は不詳。祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)・積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)とされています。 平治の乱に敗れ、伊豆国へ流された源頼朝は三嶋大社を崇敬し、「源氏再興の旗挙げの日」を三嶋大社の祭礼の日と定め、治承4年(1180)に伊豆国の目代山木兼隆を討ちとりました。 宝物館には、北条政子奉納という国宝「梅蒔絵手箱」や源頼家自筆の般若心経が残されています。 また敷地内には、源頼朝と北条政子が三嶋大社を100日に渡り日参した際に休息したとされている『腰かけ石』や、『安達藤九郎盛長 警護の跡』、源頼朝が放生会を行った『神池』、北条政子が勧請した『厳島神社』など、源頼朝夫妻にゆかりのあるスポットが多く残っています。


住所:静岡県三島市大宮町2-1-5
駐車場:あり(55台+大型バス13台)
連絡先:055-975-0172

第5回 2月6日放送分【石橋山の戦いで大敗!北条を引っぱってきた宗時が志半ばで無念の死を遂げる】

堤信遠と山木兼隆の首をとり勝利した頼朝は、坂東の政として土地の分配を始めます。ところが、それに激怒した大庭景親を中心とする平家方は3000の兵を率いて出陣し、伊藤祐親も動き出します。
鎌倉を目指す頼朝軍は石橋山に陣を取りますが、大庭景親軍と伊東祐親軍に挟まれて大敗し、山中の洞窟に身を潜めます。
宗時は義時に甲斐の武田に援軍を求めてくるように言い残し北条館に戻りますが、その途中で伊東祐親の手下に殺されてしまいました。
「坂東武者の世をつくり、その頂点に北条が立つこと」という宗時の野望は義時に託されたのです。

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登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

石橋山古戦場、佐奈田霊社

【石橋山古戦場】
伊豆・相模の武将の援軍を得て300余騎を従えた頼朝は、鎌倉に向かう途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれて大苦戦となりました。これが「石橋山の合戦」です。
頼朝方の先陣・佐奈田与一義忠が敵将の俣野景久と対戦したのを発端として戦闘に入りましたが、10倍を越える敵の軍勢に頼朝方は破れ、箱根山中に逃れました。

住所:神奈川県小田原市石橋477-1
駐車場:なし
連絡先:0465-33-1521
URL:https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/corridor/historic_battlefield/p10043.html


【佐奈田霊社】
石橋山の合戦で討死した頼朝方の佐奈田与一義忠を祀っています。この霊社は、与一が敵将の俣野五郎景久と組み討ち中、味方からの問いかけに対し「たん」がからんで声が出ず、そうこうしているうちに敵に討たれてしまったという伝承にちなんで、たん、咳、ぜんそく、声に霊験があるとして知られます。

住所:神奈川県小田原市石橋420
駐車場:あり
連絡先:0465-22-8554
URL:https://www.odawara-kankou.com/spot/spot_area/ishibashiyamakosenjo.html

第6回 2月13日放送分【弱気になった頼朝を叱咤!宗時の思いを引き継いだ義時はこれからどう動く?】

大庭景親による平家方に大敗した頼朝は、石橋山の山中に身を潜めていました。山中を捜索する大庭勢でしたが、洞窟に隠れた頼朝を発見した梶原景時はなぜか見逃し、黙って立ち去ります。

その頃、時政と義時は援軍を求めに甲斐の武田信義のもとに向かいますが良い返事をもらうことができません。

頼朝たちは船で千葉の房州へと逃げ、安西景益のもとに身を寄せます。

そんなとき、仁田忠常から宗時が取りに行ったはずの観音像を渡された義時は宗時が亡くなったことを察し、悲しみに打ちのめされながらも兄の思いを引き継ぐことを決意します。

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登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

しとどの窟、源頼朝船出の浜(岩海岸)

【しとどの窟】
石橋山の戦いに敗れた頼朝が土肥実平に導かれて追手の目を逃れるために隠れたと言われています。大小20体余りの石仏が天然の岩屈内に安置されていて、神奈川県の指定史跡になっています。

住所:神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋
駐車場:あり(無料)
連絡先:0465-63-2111(湯河原町観光課)
URL:https://www.yugawara.or.jp/sightseeing/668/



【源頼朝船出の浜(岩海岸)】
石橋山の戦いに敗れた源頼朝が1190年頃、岩海岸から房州(千葉県)に向かって船を漕ぎだし、逃げ延びたと言われています。船を漕ぎだす際に追手が迫り、村人に「あそこの船はなんだ」と聞かれましたが、「近海で鮫が出ており、それを退治するための鮫追船です」と答えて時間を稼ぎ、無事脱出できたという伝承があります。

住所:神奈川県足柄下郡真鶴町岩957-1
駐車場:なし
連絡先:0465-68-1131(真鶴町産業観光課)
URL:https://www.manazuru.net/sightseeing/iwakaigan/

第7回 2月20日放送分【まさかの命拾い!強運の持ち主・頼朝は有力豪族を味方につけて鎌倉を目指す】

房総半島で再起を図る源頼朝は、有力豪族を味方につけようと動き始めていました。安達盛長を送った千葉常胤はすぐに頼朝のもとへ参じたものの、和田義盛と義時を送り込んだ上総広常からはなかなか返事をもらえません。

その頃、伊藤祐親は夜襲をかけて頼朝を討つよう長狭常伴に命じましたが、決行の日に頼朝がたまたま見初めた亀を部屋に呼んでおり、その夫が乗り込んできたため難を逃れます。

これを聞いた広常は頼朝側につくことを決め、2万の兵を率いて頼朝のもとへ合流。奥州にいる源義経も頼朝の軍勢に参じるために旅立ちのときを迎えていました。

第8回 2月27日放送分【ついに鎌倉入り!勢力を増した頼朝勢はこのまま順調に進むのか】

武蔵の国に入った頼朝勢を討つため、平清盛は追討軍を送ります。

義時は頼朝の命を受けて甲斐の武田信義のもとへ行き、無事に頼朝の味方になる約束を取り付け、これにより勝利を確信した頼朝は御所を大倉にすることに決めました。

その頃、降伏してきた畠山重忠を受け入れ、相模入りの先陣を任せるなどにより頼朝に不満を漏らす者も出てきますが、義時と三浦義家がみんなで酒を飲む機会を設け、一つにまとめます。

そして、石橋山で大敗したわずか1ヶ月半後、頼朝勢はついに鎌倉に入りました。頼朝は鶴岡八幡宮を建立し坂東をまとめ上げ、平家を滅ぼすと宣言します。

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登場したゆかりの地
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寿福寺

当寺の一帯には源頼朝の父・義朝の館があったといわれ、その後、北条政子が明庵栄西を開山として伽藍を建立しました(現在、拝観は中門までです)。裏山の墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。


住所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-17-7
駐車場:あり(無料)
連絡先:-

第9回 3月6日放送分【水鳥のおかげで富士川の戦いを制する!?対面を果たした頼朝と義経は心を一つに】

頼朝は平家方を捕らえるために和田義盛と畠山重忠を派遣しますが、義時と三浦義村により伊藤祐親と八重は救われました。

平維盛率いる平家の追討軍が迫る中、頼朝軍は武田信義と合流し、翌々日の出陣に合意。ところが信義は頼朝を出し抜こうと深夜に出陣します。そのとき、追討軍の対岸で時政とケンカをしていた三浦義澄が転び、数万羽の水鳥が飛び立ちました。この羽音を奇襲と勘違いした追討軍は退陣。平家軍を一気に追い込むチャンスでしたが、坂東武者たちの兵糧が尽き、断念します。

そこへ、ついに義経が現れて頼朝と対面。父親の仇を討つことを涙ながらに誓うのでした。

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登場したゆかりの地
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対面石(八幡神社)

静岡県駿東郡清水町の「八幡神社」の境内にある、1180年の富士川の合戦の折に、源頼朝と奥州より駆けつけた義経の兄弟が対面した時に腰かけたと伝わる石。

もともとは今よりも北側にあったとされています。
そばには、その時植えられたとされる2本の「ねじり柿」があります。

住所:静岡県駿東郡清水町八幡
駐車場:なし
連絡先:055-972-4904

第10回 3月13日放送分【頼朝の兄弟も鎌倉に集合!いよいよ源氏再興へ向けて動き出す】

頼朝が平家の追討軍を追いやったことを聞き喜ぶ後白河法皇に、平清盛は自ら追討の指揮をとることを伝えます。

その頃、捕らえられた大庭景親が頼朝のもとに連れてこられ、上総広常の手により斬首され、首は片瀬川あたりにさらされました。

頼朝は平家方についている佐竹義政がいる常陸へ出陣。広常に意向を聞いて来るよう命じますが、義政のひと言によりカッとなり斬りつけてしまいます。激しい戦になるかと思われ、義経も有効な策を講じますが、広常が治めることに成功します。

そして、源家の八男・義円も鎌倉に到着。これで、頼朝の兄弟が揃いました。

第11回 3月20日放送分【ついに「鎌倉殿」誕生!新たな時代が築かれる中、登場人物たちの野望が燻る……。】

頼朝の勧めで義時と八重との縁談が進められますが、当の八重からは断られてしまう……。

失意も冷めやらぬまま、義時は体制を整えるために奔走します。 1180年(治承4年)、頼朝は鎌倉に完成した御所に入ります。平家から奪った所領を、家人たちに与え、頼朝は「鎌倉殿」、家人たちは「御家人」として主従の契りを交わすのでした。

一方、平清盛は、以仁王をかくまった園城寺を焼き討ちするなど、敵対勢力の掃討に力を入れますが、1181年(治承五年)に急死。

頼朝は、「清盛を倒すことは叶わなかったが、平家を必ず滅ぼす」と誓います。

第12回 3月27日放送分【鎌倉に様々な人材が集い賑わいが増す中、御所では不穏な噂が立っていた】

政子が嫡男を生み、御所がお祝いムードに包まれる中、頼朝が亀と通じていることが周辺で噂になってしまいます。
牧の方は一計を案じて、政子に亀のことを伝え、亀の屋敷の一部を打ち壊すようそそのかします。ところが、思いがけず事態が大きくなり、屋敷は全焼。これに怒った頼朝は、事件に関わった義経に謹慎処分を言い渡します。
怒りの収まらない政子は、元はと言えば頼朝の女癖の悪さが原因だと頼朝に詰め寄ります。一方で、頼朝を怒鳴りつけてしまった時政が「伊豆に帰る」と言い出すなど、御所は大騒ぎに。
果たして義時はこの事態を収められるのか!?

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登場したゆかりの地
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妙本寺

妙本寺がある比企谷は、比企一族の屋敷跡とされています。比企能員の子・能本が日蓮の弟子となり、日蓮と一族のために堂を建てたのが妙本寺の始まりといわれています。境内には源頼家の息子・一幡の袖塚や竹御所(頼家の娘・頼経の正妻)の墓があります。


住所:神奈川県鎌倉市大町1丁目15-1
駐車場:なし
連絡先:0467-22-0777

第13回 4月3日放送分【源平激突は目前!頼朝のライバル木曽義仲の動向に、揺れる鎌倉】

八重への一途な想いを募らせる義時は、鎌倉と江間を往復する日々を続けていました。

一方、平家との戦に敗れた源行家は、木曽義仲を訪ね、共に京に攻め上がろうと持ち掛けます。しかし、木曽義仲は「今ではない」とこれを断ります。

一方、頼朝は、木曽義仲の真意を測りかねていました。木曽義仲は頼朝のいとこにあたりますが、平家とつながっているという噂があったのです。

そこで、使者として義時を木曽義仲に元へ遣わすのですが……。

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登場したゆかりの地
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北条義時館跡(江間公園)

北条義時が青年時代を過ごした場所。現在は石碑のみが建てられています。北条義時は、伊豆国北条郷の豪族北条時政の次男。江間四郎あるいは江間小四郎と呼ばれた義時は、分家の江間家の初代だったと考えられています。菩提寺の北條寺の近くにある江間公園は、義時邸があったところと伝えられる地です。江間公園にある碑には「北条義時(江間小四郎義時)屋敷跡」と刻まれています。


住所:静岡県伊豆の国市南江間768-4
駐車場:18台+車いす用2台

第14回 4月10日放送分【木曽義仲の活躍と、水面下で謀る頼朝 そして、鎌倉では新たな火種が生まれていた】

木曽義仲の嫡男、義高が鎌倉入り。頼朝と政子の娘、大姫の許嫁という体裁ですが、実際は人質でした。

一方、木曽義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家を破り、上洛します。追い詰められた宗盛は、三種の神器を持ち出し、幼い安徳天皇を連れて敗走します。

義仲の活躍を悔しがる頼朝は、後白河法皇に書状を送り、義仲を出し抜きます。京へ上り義仲を倒したい頼朝でしたが、御家人たちは源氏同士の争いに反発。

鎌倉に新たな火種が生まれてしまいます。

第15回 4月17日放送分【上総広常が迎える、衝撃の運命! 頼朝の非情な裁決に義時は……】

御家人たちは、鎌倉殿が都ばかりに目を向けることに不満を抱え、謀反を計画。鹿狩りと称して頼朝の嫡男、万寿を連れ出すべく、準備を進めます。

そんななか、上総広常は、謀反に加わる振りをして、御家人たちのたくらみを治めるよう画策。

一方、木曽義仲は、源義経が京へ向かっていることを知ると、後白河法皇を捕らえて、決戦へ備えます。

義時の説得や上総広常の働きもあり、謀反は未然に阻止されました。しかし、頼朝が謀反の見せしめに選んだ御家人は、意外な人物でした。

Column

登場したゆかりの地
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朝夷奈切通

鎌倉七切通の一つで、国の指定史跡になっています。和田義盛の三男・朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたという伝説から、この名がつけられました。実際は和田一族滅亡後の1241年に、鎌倉幕府はこの峠道の開削にかかったと言われています。


住所:神奈川県横浜市金沢区朝比奈街字峠坂1
駐車場:なし

第16回 4月24日放送分【戦の天才、源義経の計略に嵌る木曽義仲 そして、ついに源平激突へ!】

木曽義仲が後白河法皇を捕らえ、頼朝追討の院宣を発出させると、頼朝は梶原景時を戦奉行とした御家人たちの軍を京へ向かわせます。

先発隊の義経と合流した御家人たちは、義経の天才的な計略に従い、木曽義仲を追い詰めていきます。

さらに、義経は後白河法皇に依頼し、平宗盛を油断させるよう謀ります。

一ノ谷の戦いと呼ばれる、源平合戦最大の行軍が幕を開けました。

第17回 5月1日放送分【義高に迫る危機 救出作戦の結果は……!?】

義経は、後白河法皇から木曽義仲追討の戦果を褒められたうえ、検非違使に任ぜられます。しかし、これは頼朝に無断の行為でした。

一方、源頼朝は、義仲の嫡男、義高が、自分と頼家(万寿)に恨みを抱くのではないかと危険視。

頼朝は義時に、「三日以内に義高を討て」と命じます。

義高が討たれることを知った政子は、義高に懐いている大姫の気持ちを思い、逃がそうと画策。義時も手伝い、いよいよ作戦が決行されるのですが……。

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登場したゆかりの地
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常楽寺

北条義時の息子・泰時が義母を供養するために建てた粟舟御堂がはじまりと言われています。敷地内には泰時本人の墓もあり、年忌供養も行われています。裏山には源義高の首塚と言われている塚があります。


住所:神奈川県鎌倉市大船5-8-29
駐車場:なし
連絡先:0467-46-5735

第18回 5月8日放送分【「壇ノ浦の戦い」で義経が大活躍! ついに源平の戦いに決着が】

源氏軍は、一ノ谷の戦いに敗れた平家軍を追討。

義経は嵐の中、船を出して屋島へ向かい、不意を突かれた平家を破ります。

さらに、壇ノ浦で平家軍を追い詰めると、敗北を悟った二位尼は、安徳天皇と三種の神器の一つである宝剣と共に海中に身を投げます。義経の活躍で、ついに平家が滅亡しました。

その後、義経は、捕らえた平宗盛を護送して鎌倉へ向かいますが、源頼朝は、義経と後白河法皇の接近を危険視し、鎌倉入りを許しませんでした……。

第19回 5月15日放送分【兄弟の亀裂は修復不能!?】

頼朝に鎌倉入りを許されず、京都へ戻る義経。

義時は、頼朝と義経の関係を修復させるため、大江広元から助言を受けます。義時らの進言により、頼朝は後白河法皇に対し、義経を伊予守にするよう願い出ます。義経が検非違使を辞して、鎌倉に戻ることを願ってのことでした。

しかし、後白河法皇は義経を留め置くため、慣例を破り、義経に検非違使と受領を兼任させます。さらに、叔父・源行家が、義経に頼朝を討つようそそのかします。

兄弟の願いとは裏腹に、ふたりの関係は悪化していきます。そんな中、後白河法皇は、頼朝追討の宣旨を出すのでした。

第20回 5月22日放送分【夏草や兵どもが夢の跡】

追討を逃れた源義経は、奥州平泉で藤原秀衡の庇護を受けていました。そんな矢先、秀衡が亡くなり、嫡男・泰衡が後継となります。

一方、北条義時は、源頼朝に「義経を連れ戻す」と申し出ます。しかし、頼朝は義経を生きて帰すことを許しません。頼朝は義時に、泰衡とその兄・国衡の仲が悪いことを利用し、義経を討たせるよう命じます。

義時は奥州を訪れて、義経に面会。義経は、義時に「もう戦をするつもりはない」と告げます。そんな義経に義時は、鎌倉で静御前の身に起きた悲劇を語るのでした……。

第21回 5月29日放送分【ついに奥州藤原氏が滅亡!頼朝が上洛へ向けて動き出す】

源頼朝は、兵を集めて奥州へ攻め込み、奥州藤原氏を滅ぼします。

後白河法皇は奥州討伐の恩賞として、頼朝に、「望みの物を与える」と伝えますが、頼朝はこれを断ります。殊勝なところを見せると同時に、言いなりにはならないという意思表示でもありました。

北条時政は、伊豆・願成就院に運慶を招き、阿弥陀如来像を作らせます。同行した義時は、阿弥陀如来像のまなざしに、妻の面影を見ていました。

一方、鎌倉では八重がみなしごたちを川で遊ばせるなか、子供の一人が川に流されてしまいます。八重は子供を助けるため川に入るのですが……。

Column

登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

願成就院

創建は、鎌倉時代初頭の文治5年(1189)。源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、北条時政が建立しました。歴史書「吾妻鏡」には、時政から三代執権北条泰時まで伽藍が整えられた様子が記されています。時政が建立した大御堂と南塔、二代執権北条義時が亡父時政公供養として建立した南新御堂、三代執権北条泰時による北塔の建立など、堂塔伽藍の造営は北条氏三代にわたります。そして、承久2年(1222)には、「定額寺」(官寺)とする旨が朝廷よりくだされ、この地に「浄土様式」の壮大な寺院が完成しました。昭和48年(1973)に、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡になっています。

住所:静岡県伊豆の国市寺家83-1
URL:https://ganjoujuin.jp/

第22回 6月5日放送分【失意の義時をよそに野望へと動き出す頼朝 そして鎌倉では不穏な動きが…】

唐突に身に起きた不幸に、失意の日々を送る北条義時。

そんななか、源頼朝は御家人たちの大軍を引き連れて上洛。後白河法皇と会談し、大姫を帝の后とするよう願い出ます。

一方、鎌倉では不穏な動きが……。工藤祐経を「親の敵」と狙う、曽我兄弟と、頼朝に不満を持つ御家人たちの思惑が交錯します。

第23回 6月12日放送分【陰謀渦巻く「富士の巻狩り」 そしてドラマに新たな世代が登場!】

御家人たちが参加する「富士の巻狩り」にて、源頼朝の嫡男・万寿は獲物を取れずに悔しい思いをします。一方、北条義時の嫡男、金剛はいとも簡単に獲物を取ってしまいます。

そんな中、曽我兄弟の謀反の企てを知った義時は、畠山重忠の協力を得て頼朝の仮住まいの守りを固めます。

しかし、頼朝の行動により、事件は意外な結末を迎えることになりました……。

Column

登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

頼朝井戸の森

富士の巻狩りを富士山麓で行った際、頼朝がのどを潤すために杯で飲んだ湧き水だと伝えられてきたことから、その水源を包む荘厳な森を「頼朝井戸の森」と呼ぶようになりました。

▼頼朝の井戸 看板より
建久4年(1193)、将軍源頼朝公は、武威を天下に誇示し、且亦将兵の士気をも鼓舞せんものと、駿河国藍沢(御殿場地方)から富士野(上井出地方)に亘る広大な富士山の裾野で大規模な巻狩を催した。
住所:静岡県裾野市須山2255-26

第24回 6月19日放送分【源範頼の鎌倉を思う気持ちと、大姫の一途な想い……変わらぬ思いの先に、衝撃のラストが!】

源頼朝暗殺の報を受けて、次の鎌倉殿の座に就く動きを見せた源範頼。

頼朝は範頼に不信感を抱き、詮議します。範頼は起請文を書き、謀反のつもりはないと弁明しますが、疑いは晴れず、修善寺に幽閉されてしまいます。

一方、木曽義高のことを想い続ける大姫は、縁談に前向きになれませんでしたが、巴御前に励まされて、入内を受け入れることにします。

しかし、京都を訪れた大姫に待っていたのは、丹後局からのきつい洗礼でした。

Column

登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

修禅寺

修禅寺(曹洞宗)は、「修善寺」という地名の基となった寺で、正式呼称は「福地山修禅萬安禅寺」(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)と言います。 大同2年(807)、弘法大師の高弟杲隣により創建され、鎌倉時代には建長寺開山の蘭渓道隆により臨済宗となり、室町時代には曹洞宗として再興され現在に至っています。 源頼朝の弟、源範頼と2代将軍源頼家が幽閉され、殺害された寺とされ、現在のご本尊である木造大日如来坐像はその頃に仏師実慶により造られたもので国の重要文化財です。また宝物殿には、源氏に関する寺宝が納められ、頼家の面といわれるものや、肖像画のほか、頼朝と主従関係にあった加藤景廉の孫にあたる善願上人の蔵骨器(県有形文化財)、神獣鏡(市有形文化財)密教法具一式(市有形文化財)、徳川家康壺型黒印状(市有形文化財)なども見ることができます。

住所:静岡県伊豆市修善寺964

第25回 6月26日放送分【ついに鎌倉殿が……!?】

自分が死んでしまうという悪夢にさいなまれる源頼朝。弟の全成からの助言を妄信し、頼家の長男・一幡を抱くことを拒むなど、死への不安が消えません。

そんな中、頼朝は御家人・稲毛三郎重成が、亡き妻のために新造した相模川の橋の供養に参加します。供養の席で、頼朝は北条義時に、鎌倉殿を頼家に継がせる考えを打ち明け、「頼家を頼む」と思いを伝えます。

その後、頼朝は安達盛長と共に、先に鎌倉御所に戻るのですが……。

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史跡・天然記念物 旧相模川橋脚

国史跡に加え、国天然記念物としての重複指定も受けている全国でも珍しい文化財です。橋落成供養に参列した頼朝が、帰途に義経の亡霊があらわれて落馬し、その怪我が原因で亡くなったという伝説もあります。保存池周辺の桜は、市内における桜の名所となっています。

住所:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1-4-2

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御霊神社

創建年は不詳。大庭景能が先祖の鎌倉権五郎景政を祀ったのが始まりで、源頼朝の前に亡霊となって現れた源義経が合祀されたと言われています。

住所:神奈川県茅ヶ崎市南湖2-9-10

第26回 7月4日放送分【次の鎌倉殿をめぐり、新たな物語が動き出す!】

相模川の橋供養から鎌倉御所に戻る帰路で、落馬し意識不明となった源頼朝。

比企能員や北条時政らの思惑が交錯し、鎌倉に不穏な空気が流れる中、北条義時は頼家を次の鎌倉殿とする新しい体制作りに着手します。

政子らの祈りもむなしく、頼朝は帰らぬ人となり、荼毘に付された遺骨は御所の裏にある持仏堂に納められました。 頼家を支える体制を整え終わった義時は、伊豆に帰る決心を固め、政子のもとを訪れるのですが…。

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鶴岡八幡宮

源頼義が石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したことに由来します。1180年に源頼朝が現在地に遷し、放生会や流鏑馬を奉納。以来、さまざまな幕府儀礼が行われました。幕府滅亡後も、後続する足利、後北条、徳川などからも部門の守護神として信仰されました。

住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31

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史跡法華堂跡(源頼朝墓)

源頼朝が奥州合戦の祈願所として、伊豆山権現の専光房(坊)良暹に命じて建立した、本尊を聖観音像とする持仏堂が、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれるようになりました。現在、源頼朝墓が建てられている場所が法華堂跡だと言われています。

住所:神奈川県鎌倉市西御門2

第27回 7月17日放送分【源頼家を支える13人衆が一堂に会すも、不穏な船出に】

源頼朝を亡くし、その跡継ぎとして鎌倉殿となった若き源頼家。スタート早々、問題は山積みで、北条義時は頼家の負担を軽減するため、訴訟問題は文官と梶原景時が取り次ぎ、最終判断だけ頼家に仰ぐ方法を考え出します。

しかし、比企能員や北条時政らが仲間を増やしながら評議への参加を主張し、結局13人の御家人による合議制がスタートします。

一方で御家人を信じないと心に秘めている頼家は義時の息子・頼時ら若者たち側近と独自の政治を行うと宣言。居並ぶ宿老達との信頼関係は早くも崩れ……。

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永福寺跡

頼朝が奥州合戦で亡くなった人々を供養するために建立した寺院の跡です。本堂は二階堂とも呼ばれ、地名にもなっています。藤原行政は永福寺(二階堂)付近に居住したことから、二階堂氏を称しました。鎌倉歴史文化交流館では永福寺のVRを体験できます。

住所:神奈川県鎌倉市二階堂178
駐車場:なし
連絡先:0467-61-3857

第28回 7月24日放送分【13人衆の権力闘争により勃発!梶原景時が罷免され…】

源頼家を補佐する13人の宿老による訴訟の取次は、それぞれの思惑も絡み、最初から紛糾します。

そんな折、その厳格さで周囲から煙たがられる侍所別当・梶原景時に対する「御家人66人の連判状」が提出され、頼家は景時を罷免、奥州外ケ浜への流罪を言い渡します。

景時は後鳥羽上皇の誘いに乗り、上洛を図りますが、義時がそれを阻止。景時は流罪先へ向かうと言って去ります。

しかし、義時は景時が華々しく戦って散るつもりだと察し、景時追討の兵を挙げさせ……。

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梶原景時館址(一之宮天満宮)

梶原景時は頼朝の側近として重用されましたが、頼朝の死後は孤立し、1199年に鎌倉を追放されました。鎌倉を追われた景時は、この館から再起をかけ京に向け出立したとされています。現在その場所には、景時を偲び里人が建てたと言われる天満宮が残っています。また、梶原氏の家臣の墓と伝えられる「伝七士の墓」(館跡の東 (約120m))があります。

住所:神奈川県高座郡寒川町一之宮8-6
駐車場:なし
連絡先:0467-74-1111

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建長寺

北条義時のひ孫である5代執権時頼が、中国(宋)の 高僧蘭渓道隆を迎えて創建した日本最初期の本格的禅寺です。建長寺三門では、毎年7月15日に梶原景時の菩提供養のための施餓鬼会が行われています。

住所:神奈川県鎌倉市山ノ内8
駐車場:あり(乗用車20台、600円)
連絡先:0467-22-0981

第29回 7月31日放送分【御家人たちのパワーバランスが崩れ、北条と比企の覇権争いが激化!】

鎌倉では、北条時政の悪友だった三浦義澄、源頼朝の従者として長く仕えた安達盛長が相次いで世を去り、13人の御家人は早くも残り9人となりました。

頼家の跡継ぎ問題では、頼家の正室・つつじが次男・善哉を出産し、三浦義村が乳母夫となりますが、比企能員は頼家の長男・一幡こそ後継とし、また北条時政は政子の次男・千幡を後継としたいと考え、双方の覇権争いは激化。

そんな中、時政と妻のりくは、頼朝の異母弟で僧侶の阿野全成に頼家への呪詛を命じますが…。

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衣笠城址

三浦氏の祖とされる村岡平太夫為通が1063年頃築いたと伝えられる山城です。山頂付近が本丸跡と伝えられ、いわゆる詰の場所としての状態をとどめています。鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡です。

住所:神奈川県横須賀市衣笠町29番地
駐車場:なし
連絡先:046-822-8484

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満昌寺

源頼朝が三浦大介義明を弔うために建立したと伝えられています。本堂裏の御霊社は和田義盛の建立といわれ、義明を神格化した衣冠束帯の鎌倉末期作の坐像(国指定重要文化財)が祀られています。境内には頼朝ゆかりのツツジが植えられており、本堂裏には三浦義明廟所もあります。

住所:神奈川県横須賀市大矢部1-5-10
駐車場:あり(普通車のみ)
連絡先:046-836-2317

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三浦義澄の墓(薬王寺旧跡)

山号は仏頂山で、1212年に鎌倉幕府の侍所別当の和田義盛が父・杉本義宗や叔父・三浦義澄の菩提を弔うため創建されたと伝えられています。1876年頃廃寺となり、現在は三浦義澄の墓と伝わる石塔が跡地に残されています。

住所:神奈川県横須賀市大矢部1-13
駐車場:なし
連絡先:046-822-8484

第30回 8月7日放送分【頼家を呪詛した罪で、阿野全成が壮絶な最期! 鎌倉では義時が比企と対峙し…】

鎌倉殿・源頼家への呪詛を行った疑いがかけられ、詮議を受けた阿野全成は、北条義時や畠山重忠らの尽力もあり、八田知家の統治する常陸へ流罪となります。

一方、北条家への対決姿勢を強める比企能員は、頼家とも所領の再配分を巡って対立。

比企は常陸に流された全成に、頼家への呪詛を焚き付け、その謀反は再び露見してしまい、全成は暴風雨の中で、知家によって討ち取られてしまいます。

鎌倉では北条義時が、ある決意を持って比企能員と相対峙し…

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大泉寺

源頼朝の異母弟阿野全成の居館跡といわれる地に建つ寺。境内には館跡を偲ばせる土塁が残っています。全成が居館に建てた持仏堂が大泉寺のはじまりといわれ、当初は真言宗の寺でしたが、天正年間(1573~92)に曹洞宗に改宗されたとされています。


(大泉寺 HPより)
開基は法華院殿阿野法橋全成(ほっけいんでんあのほうきょうぜんじょう)である。牛若丸と弁慶の話は誰でも知っているが、源頼朝に今若丸(いまわかまる)という異母兄弟がいたことは余り知られていない。この今若丸がのちの阿野全成である。牛若丸と今若丸は源義朝と常磐の間に生まれ、平治の乱で義朝が敗北したあと寺に預けられたのも同じなら乱暴者で名が通っていたのも同じである。今若丸は醍醐の悪禅師とも呼ばれ、治承4年(1180)頼朝挙兵後その傘下に加わり、源平の争乱後駿河の阿野荘(沼津市今沢から富士市吉原にかけてを阿野庄といった)を賜って阿野全成と呼ばれるようになる。北条時政の娘(阿波局)と結婚し、現在の大泉寺あたりに館を建てその一隅に持仏堂を造り源氏一門の霊を慰めたのが寺の始まりで、最初は真言宗であったという。
住所:静岡県沼津市井出744

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阿野全成の墓

大泉寺の境内には源頼朝の異母弟阿野全成と、その子、時元のものと伝わる墓石があります。時元の母は北条義時と政子の妹にあたる阿波局といわれています。


(伝阿野全成・時元墓 看板より)
阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡男源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常磐御前です。 頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。 その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。
住所:静岡県沼津市井出744

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首かけの松の石碑

阿野全成が謀反の罪で斬られた時、その首が子の時元のいるこの地まで飛んできて松の木にかかったと言われています。また、家臣が首を持ち帰ったが、警備が厳しく館の中に入れなかったため、入り口近くの松にかけたとも伝わっています。大泉寺の入口にあった松がその松だといわれていましたが、現在は枯れてしまいその跡に石碑が建てられています。またその切り株は寺で保存されています。

住所:静岡県沼津市井出744

第31回 8月14日放送分【北条vs.比企の全面戦争へ! 比企能員の乱の顛末と、鎌倉殿の後継…】

病に倒れた鎌倉殿・源頼家の後継者をめぐり、暗躍する比企能員と北条の争いが激化。比企は能員の娘・せつが生んだ、頼家の長男・一幡を、北条は頼家の弟・千幡を推し北条義時、時政が能員と話し合いますが、交渉はことごとく決裂します。遂に比企を滅ぼすことを決めた義時は、和議を申し入れる形で能員を北条館へ招き、一人でやってきた能員を討ち取ります。その日のうちに比企一族も北条の軍勢に滅ぼされます。

そして、千幡と北条時政による新しい政治体制へ評議が始まる中、その間ずっと意識の戻らなかった頼家が死の淵から奇跡的に回復し…。

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名越切通

名越切通はまんだら堂やぐら群、大切岸を含めた中世鎌倉時代の交通遺跡、葬送遺跡、石切場跡(防衛遺構とも)で構成された遺跡群です。現在も整備が進められており、やぐら群の公開日は限定されています。この一帯は石山と共存した鎌倉時代の石造文化を感じとれる場所でもあります。

住所:神奈川県逗子市小坪7丁目、久木9丁目
駐車場:なし
連絡先:046-872-8153

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妙本寺

妙本寺がある比企谷は、比企一族の屋敷跡とされています。比企能員の子・能本が日蓮の弟子となり、日蓮と一族のために堂を建てたのが妙本寺の始まりといわれています。境内には源頼家の息子・一幡の袖塚や竹御所(頼家の娘・頼経の正妻)の墓があります。

住所:神奈川県鎌倉市大町1丁目15-1
駐車場:なし
連絡先:0467-22-0777

第32回 8月21日放送分【頼家の奇跡的な回復が新たな火種となり、いくつもの悲劇と別れが…】

死の淵から息を吹き返した二代鎌倉殿・源頼家。その処遇と、千幡(実朝)・北条時政による新体制への評議が、北条家を中心に行われます。

頼家は自身の意識がない間に、比企一族が滅ぼされた上、弟が後継に立てられていることに激高します。

一方、義時の妻・比奈は比企の血を引く身として義時に離縁を申し出、比企能員を討った仁田忠常は、頼家と北条の板挟みとなり、自害を選びます。鎌倉を新たな災いが覆う中、義時は頼家を伊豆の修善寺に送ることを決めます。

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極楽寺

北条義時と姫の前の息子・重時が開基となり建立した寺です。周辺はもともと三浦氏の所領であったとする説もあり、後に重時がこの地を獲得し、山荘を建てました。全盛期には大寺院だったものの、火災や地震により現在は山門と本堂を残すのみとなっています。

住所:神奈川県鎌倉市極楽寺3-6-7
駐車場:なし
連絡先:0467-22-3402

YouTuberミスター武士道的視点で“7月放送まとめ記事”

ついに始まった『鎌倉殿の13人』
  • ミスター武士道
    ミスター武士道
    いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
    今回は、7月の『鎌倉殿の13人』を振り返ってみたいと思います。

    第26回『かなしむ前に』で鎌倉幕府の創設者・源頼朝がついに退場しました。
    昏睡状態に陥っていた頼朝を必死に看病する妻の政子が印象的でしたね。

    このまま息を引き取ると思われた頼朝が、最後に一瞬だけ意識を取り戻し、「これはなんですか?」と、政子に問いかけるシーンは、鎌倉殿と御台所として御家人たちの頂点に立ってきた二人が、出会った頃の二人に戻った瞬間でした。

    頼朝と政子の夫婦生活は約20年ですが、頼朝が天に召されるとき、その過ぎ去りし日々を走馬灯のように政子は思い出したのではないでしょうか。
    そして、それは我々視聴者も同じ。第1回からここまでの頼朝の物語に思いを馳せます。

    このように歴史上の人物の半生を追体験できる事が大河ドラマの醍醐味であり、第1回から欠かさずドラマを追いかけてきた視聴者へのご褒美だと私は思っております。

    そして、そんな感慨にふけっている視聴者にも容赦しないのが、『鎌倉殿の13人』。頼朝を失った御家人たちは、それぞれの思惑を胸に権力闘争を開始します。

    そうです、この大河ドラマ、みなさんも歴史の教科書で習った「十三人の合議制」がメインテーマとなっております。「鎌倉殿の13人」ですからね。
    頼朝が退場してからが本番なのであります!

    しかし、13人が出揃った翌週の第28回では中原親能が退場、続く第29回には梶原景時、三浦義澄、安達盛長がこの世を去りました。なんと1ヵ月も経たないうちに13人から9人に!

    新体制で権力を握りたい有力御家人たち、操り人形にされまいともがく2代目の頼家……鎌倉を巡る権力闘争はこれからますます激しくなります。

    頼朝の死で制御不能となった鎌倉幕府を、主人公・義時はどのようにまとめていくのでしょうか?

    ついに始まった『鎌倉殿の13人』(もうすでに9人ですが…苦笑)、今後の展開からも目が離せません!!

第33回 8月28日放送分【修善寺に追放された失意の源頼家が謀反か。義時の命を受けた暗殺者・善児は…】

源実朝を三代鎌倉殿に、そして北条時政を執権別当に据えた新体制が始動します。

御家人たちは北条家が派手に権力を振るうのを敬遠し、実朝を北条に取り込まれたくない京の後鳥羽上皇は、側近の源仲章を鎌倉に送ります。

一方、伊豆の修善寺に追放された頼家は北条家への復讐を誓いますが、後鳥羽上皇へ北条追討の院宣を願い出たことが八田知家に発見され、義時はついに頼家を討つことを決め、暗殺者・善児たちを修善寺へと向かわせますが…

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源頼家の墓・源頼家公廟道(源氏公園内)

修禅寺と対面する鹿山(しかやま)のふもと源氏公園内の指月殿隣にあります。正面に立っている石柱は元禄16年(1703)頼家500回忌の際に、時の修禅寺住職が建てた記念碑。本当の墓は記念碑の奥にある小さなもので、三基あるうち真ん中が頼家、両側が側室の若狭の局(わかさのつぼね)とその子一幡(いちまん)のものといわれています。

住所:静岡県伊豆市修善寺935
駐車場:なし

YouTuberミスター武士道的視点で“8月放送まとめ記事”

「迷いが救い」義時はまだ主人公でいられる
  • ミスター武士道
    ミスター武士道
    いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。

    今回も、8月の『鎌倉殿の13人』を振り返ってみたいと思います!

    この1ヵ月だけでも、全成、比企能員、仁田忠常、源頼家、善児など数々の主要人物が退場していきました。

    中でも、殺戮マシーンとして視聴者を恐怖のどん底に陥れた善児が、一幡(頼家の子)との交流で人間の感情…「愛」に目覚める展開は、この後に無惨な最期を迎える前振りだとわかっていても辛いものがありました。

    北条義時の2番目の妻・比奈も、比企の族滅と共に鎌倉を離れ、いなくなってしまいました。

    幕府のために非情な決断を下す義時は、暗黒面(ダークサイド)に堕ちてしまったのか……こんな暗すぎる主人公、応援できないよ……

    そう思っていた矢先、一筋の光を差してくれたのが運慶さんでした。
    15年ぶりに再会した義時の顔を見るなり「悪い顔になった」と評しつつ、その中にある迷いを見抜いて、救いを説きました。

    義時はまだ、完全に暗黒面に堕ちたわけではなかったのです。良かった。義時はまだ物語の主人公でいられるようです。

    しかし、息子の泰時は、秩序の為に手を汚すことをためらわない義時に真向から反対します。
    そんな泰時をかつての自分に重ね、義時は何を思うのか。そして、この先に降りかかる数々の難題を、迷いの中でどう乗り越えていくのか……今後も一層、目が離せませんね。

    ところで、ドラマでは義時と運慶さんが再会するきっかけとなったのは、和田義盛の発願でした。義盛は、侍所別当として数々の戦に参加した武人ですが、決して戦一辺倒だったわけではないようです。むしろ、命の奪い合いをする戦に明け暮れていた分、御仏への帰依があったのかもしれません。
    三浦半島には、和田義盛ゆかりの寺院が数多く残っており、義盛の発願によって運慶が制作したとされる仏像は、今でも横須賀市の浄楽寺に安置されています。
    私も先日、取材でお目にかかりましたが、その様子を「いざ、神奈川!デジタルラリー」WEBサイト内でも公開しますので、ぜひご覧ください!

第34回 9月4日放送分【三代鎌倉殿・実朝の正室を京から迎える話が進み、義時にも新たな出会いが…】

成長した三代鎌倉殿・源実朝と後鳥羽上皇の従姉妹・千世との婚姻が決まります。しかし北条の台頭を快く思わない上皇や源仲章、慈円らは策略を巡らします。

鎌倉ではなぎなたや弓、政(まつりごと)の講釈、処世の術など、宿老たちによる実朝への教育もはじまりました。

また北条時政から「惣検校職」の役目を返上するよう求められた畠山重忠は、憤りを隠せず、北条義時に相談。ここにも新たな火種が生まれます。

そして義時自身にも文官・二階堂行政の孫娘のえとの新たな出会いが…

第35回 9月11日放送分【実朝の妻となる千世が鎌倉に到着。息子・政範の京での怪死に心痛める母りくは…】

三代鎌倉殿・源実朝の妻となる千世が京から鎌倉へ到着。一行を率いて凱旋するはずだった北条時政の息子・政範は京で急死してしまいました。

失意の母親・りくに、娘婿で後鳥羽上皇とも通じる平賀朝雅が、畠山重忠の嫡男・重保が政範怪死に関わっているという讒言を吹き込みます。

一方、重保は京での朝雅の怪しい振る舞いを北条義時に相談、義時は父・時政の暴走をいさめます。

しかし、りくは朝雅の言葉を受け、重保を逆恨みし、畠山討伐を時政に懇願します。一触即発の危機を回避するため、義時は重忠のいる武蔵国へ向かい…

第36回 9月18日放送分【和田義盛の説得もむなしく、畠山重忠の乱が勃発。重忠と北条義時、互いに引けない戦いの行く末は…】

三代鎌倉殿・源実朝より下文へ花押をもらった執権・北条時政は畠山重忠を討つべく、御家人を招集。重忠の嫡男・重保を人質にとるよう命じます。

由比ヶ浜に誘い出された重保は抵抗し、三浦義村たちは重保を殺めざるを得なくなります。愛息への騙し打ちを知った重忠は二俣川の手前から鶴ヶ峰へ兵を進め、陣を敷きます。和田義盛が戦回避の説得に向かいますが、重忠の意思は固く、決戦の火蓋が切られます。

重忠は義時の息子・泰時を狙うと見せかけ、義時をおびき出します。やがて二人は壮絶な一騎打ちに。重忠の運命は。そして乱によって激化する北条家内の対立の行方は…

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畠山重忠公碑

源頼朝の忠臣で、智・仁・勇を兼ね備えた武将とし て名声をはせた畠山重忠。頼朝の死後、北条時政の罠により討ち死にし、42歳の生涯を閉じました。この碑は、1955年6月、没後750年を記念して、横浜市 旭区鶴ヶ峰と埼玉県深谷市畠山(旧川本町)の有志により建立されました。

住所:神奈川県横浜市旭区鶴ケ峰本町1丁目
駐車場:なし
連絡先:045-954-6095

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矢畑・越し巻き

鎌倉時代の武将・畠山重忠が陣をはったとき、北条勢が射た矢が無数に落下し、矢の畑のようになったことから矢畑と呼ばれています。また、この辺りで取り囲まれたということで、越し巻きと言われています。史跡としての正確な場所は不明で、現在は跡地に標柱のみ設置されています。

住所:神奈川県横浜市旭区鶴ケ峰本町1丁目
駐車場:なし
連絡先:045-954-6091

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六ツ塚

北条時政よって仕掛けられた罠により討ち死にした、畠山重忠をはじめ一族郎党134騎を埋めたと伝えられている6つの塚が六ツ塚で、霊堂とともに薬王寺の敷地内にあります。霊堂には重忠の霊が祀られており、命日(6月22日)には慰霊祭が行われています。

住所:神奈川県横浜市旭区鶴ケ峰本町2丁目
駐車場:なし
連絡先:045-954-6091

第37回 9月25日放送分【激化する北条親子による主導権争い。新鎌倉殿擁立計画、その顛末は…】

実の父である執権・北条時政の排除を決意した義時は、政子や大江広元らと新体制を始動します。

一方、りくは夫・時政が蚊帳の外に置かれたことに憤慨。三浦義村を誘い、反撃ののろしを上げます。ますます激化する北条家内の対立。

そんな中で、義時と政子の前に突然、時政が酒と肴を持って現れ、ひととき家族の酒宴が催されます。それは懐かしいかつての団欒を思わせるものでした。

やがて時政は、義村に命じて鎌倉殿・源実朝の身柄を自身の屋敷に移させ、実朝に出家して鎌倉殿の座を娘婿・平賀朝雅に譲るよう迫りますが…

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建長寺

北条義時のひ孫である5代執権時頼が、中国(宋)の高僧蘭渓道隆を迎えて創建した日本最初期の本格的禅寺です。建長寺三門では、毎年7月15日に梶原景時の菩提供養のための施餓鬼会が行われています。

住所:神奈川県鎌倉市山ノ内8
駐車場:あり(乗用車20台、600円)
連絡先:0467-22-0981

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円覚寺

8代執権北条時宗が、中国(宋)の高僧無学祖元を迎えて創建した禅宗寺院です。国宝の舎利殿には、源実朝が宋から請来し、もと大慈寺に安置されていた という仏舎利が祀られています。また、洪鐘も国宝に指定されています。

※舎利殿は通常一般非公開となっています
住所:神奈川県鎌倉市山ノ内409
駐車場:なし
連絡先:0467-22-0478

YouTuberミスター武士道的視点で“9月放送まとめ記事”

武士の鑑 畠山重忠の退場
  • ミスター武士道
    ミスター武士道
    いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。

    今回も9月の『鎌倉殿の13人』を振り返っていきましょう!

    ついにこの時が来てしまった……『武士の鑑』畠山重忠の退場です。

    北条時政の娘と結婚し、北条ファミリーの一員だったはずの重忠が、時政とりくの謀略によって謀反人に仕立て上げられてしまいました。

    家族を引き裂く、鎌倉幕府執権という名の権力。人の野心とは恐ろしいものです。

    重忠の最後の戦い、二俣川の合戦では、幕府軍の総大将となった北条義時とのまさかの一騎打ちが描かれました。

    総大将でありながら、重忠の誘いにのって単騎駆ける義時。立ちはだかる重忠。これです。これこそが時代劇の醍醐味でござる!!!
    確かに、あの場面で重忠と義時が一騎打ちをしたという歴史上の記録はありません。
    ですが、源平合戦以来、ともに数々の修羅場をくぐり抜けてきた二人の決別を描くのに、これほど痺れる展開がほかにあるでしょうか。

    二人の戦いは騎馬から降りての肉弾戦、組み打ちとなりました。鎌倉時代の甲冑は非常に頑丈で防御力が高く、日本刀の切れ味をもってしても簡単には通さないと言われています。
    なので、ドラマで描かれたように、刀で斬り合うのではなく、素手での取っ組み合いというのは、かえってリアルだったのかもしれません。

    畠山重忠は、数々の怪力伝説を持つ偉丈夫です。一騎打ちで重忠に敵わないことは義時自身もわかっていたはずです。
    それでも義時が果敢に戦いを挑んだのは、父・時政の暴走を阻止できなかったことへのケジメだったのではないでしょうか。

    そもそも総大将が打ち取られたら大変なことになります。あまりに無謀な戦い。そんなことしたらダメだ!とは我々は言いません。
    北条泰時や和田義盛、三浦義村たちと同じように、画面の前で二人の戦いを見届けるのです。なぜなら、9カ月にわたりこのドラマを見続けてきた我々視聴者も、すでに坂東武士だからです!
    最後は、重忠が義時を組み伏せあわやというところで、地面に短刀を突き刺しました。ここで義時を殺せば、執権・時政の暴走を止められる人間はいなくなります。
    重忠はそれをわかっていて、義時に戦いを挑んでいたのでした。満足げな表情を浮かべ、重忠は去っていきます。鎌倉の未来を義時に託して。

    まさに武士の鑑。畠山重忠の最後をこんなに格好よく描いてくれてありがとう。感謝の言葉しか出てこないです。

    畠山重忠が最後を迎えた地、神奈川の二俣川にはこの戦いゆかりの場所や地名が令和の現代にも残っています。
    「万騎が原」は、畠山軍を包囲した幕府軍の数が万騎に及んだことから、「万騎」の文字が使われるようになったそうです。
    個人的なお気に入りは、「さかさ矢竹」。重忠が死の直前に、「私の心が正しければ生えろ!」と言って矢を突き刺した場所に本当に竹が生えた。という伝承のある地です。
    現在生えている矢竹は有志の方々によって近年植えられたものだそうですが、こういった鎌倉時代らしいエピソードが今も語り継がれているのは、歴史好きとしては嬉しい限りです。

    重忠に後を託された義時は、鎌倉を変えることができるのか?今後の展開にもますます目が離せません。

第38回 10月2日放送分【二代執権・北条義時が誕生!後鳥羽上皇との苛烈な戦いへ…】

執権・北条時政は、鎌倉殿・源実朝を屋敷へ連れ込み、鎌倉殿の座を娘婿・平賀朝雅へ譲るよう迫ります。

一方、義時は息子・泰時、弟・時房、八田知家らを率い、時政の屋敷を包囲します。

進退きわまった時政は三浦義村に頼んで、妻のりくを逃し、実朝を解放。自ら首を斬ろうとしたところを止められ、剃髪。時政とりくは伊豆への流罪を言い渡されます。

こうして初代執権・北条時政は鎌倉を去り、義時が漆黒の衣をまとい、二代執権の座に就くこととなり…。

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登場したゆかりの地
登場したゆかりの地

守山八幡宮

願成就院の後方にある神社。治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した地であり、源頼朝ゆかりの神社です。境内の石碑には、「史蹟 源頼朝挙兵之碑」と題した石碑があり、次のように刻まれています。 「源頼朝 治承四年八月十五日守山八幡宮に平家追討を祈願して挙兵 夜陰 源氏重恩の軍 兵数十騎 山木判官平兼隆を襲い討つ 其の間 頼朝  遥かに山木館の火煙を望み 悲願の達成を悦ぶ 蓋し鎌倉幕府草創の礎はここに於て成ると 故に記して 建碑の所以とする」 現在の本殿は慶長2年(1597)韮山城主内藤信成の造営です。

住所:静岡県伊豆の国市寺家1204-1

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登場したゆかりの地
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願成就院

創建は、鎌倉時代初頭の文治5年(1189)。

源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、北条時政が建立しました。歴史書「吾妻鏡」には、時政から三代執権北条泰時まで伽藍が整えられた様子が記されています。
時政が建立した大御堂と南塔、二代執権北条義時が亡父時政公供養として建立した南新御堂、三代執権北条泰時による北塔の建立など、堂塔伽藍の造営は北条氏三代にわたります。
そして、承久2年(1222)には、「定額寺」(官寺)とする旨が朝廷よりくだされ、この地に「浄土様式」の壮大な寺院が完成しました。昭和48年(1973)に、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡になっています。
住所:静岡県伊豆の国市寺家83-1

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登場したゆかりの地
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北条時政の墓(願成就院内)

願成就院の中にある北条時政の墓。

願成就院は時政が創建した氏寺であり、国宝の運慶作5体の仏像が安置されている。
伊豆国北条に館を構えていた伊豆の有力豪族の一人。源頼朝の岳父となり、頼朝の挙兵を助けて鎌倉幕府の成立に貢献し、幕府初代執権に就任した。北条氏繁栄の礎となり、建保3年(1215)78歳で没した。
住所:静岡県伊豆の国市寺家83-1

第39回 10月16日放送分【北条義時による政(まつりごと)の改変が進み、御家人たちは不満を募らせ…】

二代執権・北条義時は大江広元とともに、政(まつりごと)を改め、御家人たちが謀叛を起こさないような仕組みを作り始めます。しかし、御家人たちはその強引な手法に不満を募らせていました。

一方、三代将軍・源実朝は、政子らが世継ぎの誕生に気を揉むのをよそに、自らの境遇に苦悩していました。

そんななか、源頼家の実子・公暁が上洛。歴史上の大事件が目前に迫ります。

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登場したゆかりの地
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鶴岡八幡宮

源頼義が石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したことに由来します。1180年に源頼朝が現在地に遷し、放生会や流鏑馬を奉納。以来、さまざまな幕府儀礼が行われました。幕府滅亡後も、後続する足利、後北条、徳川などからも武門の守護神として信仰されました。

住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
駐車場:あり(普通車40台、1時間まで600円 以降30分毎300円)
連絡先:0467-22-0315

第40回 10月23日放送分【義時は和田義盛の討伐を画策 政子や実朝は戦の回避に向けて奔走するが…】

京の閑院内裏修復を鎌倉に負わせようとする後鳥羽上皇の命令に対し、和田義盛を中心に鎌倉の御家人たちは猛反発します。

二代執権・北条義時は多くの御家人から頼りにされる勇猛果敢な義盛の存在がいずれ障害となることを憂え、義盛の追い落としを画策します。

信濃で義時の命を狙った暗殺計画が露見し、それに義盛の親族が関わったことを理由に、義時は盟友・三浦義村とともに、義盛を追い詰めていきます。

一方で、実朝や北条政子による戦回避への説得が効を奏し、一度は矛を収めることで事態は収拾しますが…。

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登場したゆかりの地
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光念寺

和田義盛が開基のお寺。源頼朝が石橋山合戦に敗れて安房へ舟で落ち延びる際、流れ着いた漁具の「筌」を使って魚を獲って飢えをしのぎ、挙兵が実現しました。その後、その「筌」が龍になって天に昇った夢を義盛が見たことから、光念寺を創建し筌龍弁財天を祀ったと言い伝えられています。

住所:神奈川県三浦市三崎1-18-1
駐車場:あり
連絡先:046-881-2604

第41回 10月30日放送分【鎌倉最大の戦「和田合戦」勃発!実朝は和田義盛の助命のため陣頭に立ちますが…】

実朝や政子の尽力によって、一度は回避された和田義盛との戦。しかし帰宅が遅れたことから、父・義盛の安否を気遣う息子らが、御所を目指し、決起します。

こうして鎌倉最大の激戦と言われる和田義盛の乱「和田合戦」が勃発。鎌倉御所や若宮大路を戦場に一進一退の攻防が繰り広げられます。

三浦義村、八田知家ら有力御家人の寝返り、そして西相模の御家人たちの寝返りにあって和田勢は劣勢に。義盛は騙し討ちにあい、落命します。

鎌倉随一の忠臣・義盛を失った実朝の落胆は激しく、今後は後鳥羽上皇を頼りとし、自らの政を進めると宣言。義時との対立を深め…

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和田塚

北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)で、敗死した和田一族屍(しかばね)を埋葬した墓と伝えられています。和田塚に近い由比ガ浜一帯は、和田合戦の主戦場となった場所です。明治時代の道路工事で埴輪や多くの人骨が掘り出されました。

住所:神奈川県鎌倉市由比ガ浜2-19-1
駐車場:なし
連絡先:0467-23-3000

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登場したゆかりの地
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善栄寺

如意山善栄寺は、曹洞宗の寺院です。建保3年(1215年)、巴御前(ともえごぜん)が木曽義仲(きそよしなか)と和田義盛の菩提を弔うために創建したといわれています。 創建当初は律宗の寺でしたが、延元3年(1338年)、鎌倉円覚寺の東明恵日和尚(とうみょうえにちおしょう)が足柄の地に隠棲した時に再建されて臨済宗を経て天文23年(1554年)に北条氏康の夫人瑞渓院殿(ずいけいいんでん)が帰依して曹洞宗に改められました。また、敷地内には、二宮尊徳のお墓もあります。

住所:神奈川県小田原市栢山868
駐車場:あり
連絡先:0465-36-0504

第42回 11月6日放送分【鎌倉殿・実朝と執権・義時との溝はより深くなり、実朝が夢見た宋へと渡る唐船建造計画は…】

忠臣・和田義盛を失った実朝は、後鳥羽上皇を手本に自ら政(まつりごと)を進めると宣言。泰時を傍に新しい鎌倉へ舵を切りはじめます。

義時は鎌倉での地位を磐石なものとし、執権を名のるように。そして実朝の決意を苦々しく感じ、彼らの施策をことごとく牽制します。

こうした実朝と義時との亀裂に一計を案じる政子。また京より戻った源仲章は、実朝に宋の技術者・陳和卿を引き合わせます。

仲章に進言され、実朝は夢に見た船の建造を決意。由比ヶ浜で渡宋計画のための巨大な唐船の建造が進みますが…。

第43回 11月13日放送分【朝廷から鎌倉殿の後継となる親王を迎える話が進む中、それぞれの思惑が複雑に絡み合い…】

実朝に嫡男が誕生せず、鎌倉殿の後継者問題が混迷するなか、二代将軍・頼家の次男、公暁が京での修行を終えて鎌倉に帰還。公暁は、次期鎌倉殿になる野望を胸に、乳母夫にあたる三浦義村と策をめぐらします。

その思いをよそに、実朝が「朝廷の血筋から後継将軍を迎えたい」と主張すると、義時らが反発。

そして後鳥羽上皇からの知らせにより、頼仁親王が実朝の後継者となることが決まります。

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明王院

3代将軍源実朝が暗殺されると、北条政子や北条義時は頼朝の遠縁にあたる九条頼経を京都から鎌倉に迎え、4代将軍に擁立しました。その頼経が御願寺として建立した寺院です。近隣に大江広元を祀る大江稲荷があり、観音堂にはその御神体も安置されています。

住所:神奈川県鎌倉市十二所32
連絡先:0467-25-0416

第44回 11月20日放送分【実朝の右大臣拝賀式へ向けて、公暁、義時、仲章らそれぞれの思いが激しく交錯し…】

後鳥羽上皇より右大臣に叙されることとなった源実朝。政子ら北条家が浮き立つ中、拝賀式当日を迎えます。

一方、千日の参籠を行う公暁は、鎌倉殿となる野望を抱き続けており、三浦義村に拝賀式で実朝を討つことを宣言します。

公暁の強い怨嗟を訝しんだ実朝は、兄・頼家の死に深く北条家が絡んでいることを知り愕然とします。公暁に詫びますが、公暁の心は変わりませんでした。

源仲章の暗躍、北条泰時の憂慮。雪の降り積もる八幡宮の大階段を舞台に、鎌倉時代最大の悲劇の幕が切って落とされようとしています。

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覚園寺(かくおんじ)

北条義時が大倉に建立した薬師堂がその前身といわれ、永仁4年(1296年)に北条貞時が心慧を招いて覚園寺と改めました。大倉薬師堂の由緒を引き、夢告により北条義時の危機を救ったという霊験を持つ戌神像が伝わっています。

住所:神奈川県鎌倉市二階堂421
駐車場:なし
連絡先:0467-22-1195

YouTuberミスター武士道的視点で“10月放送まとめ記事”

愛されキャラ・和田義盛の最期に涙
  • ミスター武士道
    ミスター武士道
    いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。

    今回も10月の『鎌倉殿の13人』を振り返っていきましょう!

    10月の鎌倉殿の13人は、初代執権・北条時政から北条義時への政権交代によって、作品の、そして義時の雰囲気が大きく変わった印象を受けました。

    無実の畠山重忠を滅ぼしたことで、御家人たちからの信頼を失ってしまった時政。鎌倉の為に父の所業を見過ごせなかった義時。
    北条親子の今生の別れは、涙なしには見られません。特に、第1回の和気あいあいとした北条ファミリーのやりとりを見ている私たちにとっては。

    私事で非常に恐縮ですが、私自身も10年ほど前に家族内のトラブルで父と離別しておりまして、この親子のことを、どこか他人事には思えませんでした。

    最終的には私も父を恨むことになってしまいましたが、父に遊んでもらった幼少期の幸せな記憶も確かにあり……親子関係とは、本当に複雑なものですね。

    一方で、娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようとしたりく(牧の方)の退場はずいぶんと逞しいものでした。彼女の野心のせいで、多くの犠牲が払われたことから、視聴者からは「悪女」との誹りを受けてしまいましたが、私はそうは思いません。
    明日も知れぬ鎌倉時代に、自分の愛する夫が出世することを誰よりも望み、それを支え続けた姿は、単なる悪女とは云い切れないのではないでしょうか。

    計画は失敗に終わりましたが、二人は伊豆で静かに晩年を送ったそうです。
    しかも歴史上の牧の方は、夫・時政が亡くなった後、京都のほうで活動していた記録が残っており、したたかにこの時代を生き抜いたようです。まさにドラマでのイメージそのものですね。

    そして、時政の跡を継いで幕府の最高権力者となった義時は、最大の政敵・和田義盛の排除に動き出しました。
    義盛は、頼朝旗揚げ以来の御家人筆頭で、幕府においても侍所別当を務める重役です。
    幕府にとって最も頼りになる存在でありながら、北条一族が牛耳る幕府に不満を持った者たちが頼りにするのもまた和田義盛でした。

    和田が兵を挙げれば、不穏分子を一網打尽にできる。義時が和田義盛の挙兵にこだわっていたのには、こういった理由があるわけですね。
    いくら幕府の政治安定のためとはいえ、あまりに非情な決断です。

    この物語の中で、無骨ながらも憎めない愛されキャラとして描かれてきた和田殿。ひげもじゃが可愛い和田殿。あまりにも哀しい最期でした。

    多くの戦死者を出した和田合戦。その激戦地は、現代では海水浴場として有名な由比ヶ浜です。
    近くにある和田塚駅も、和田一族を供養した和田塚に由来します。
    もし、由比ヶ浜を訪れた際には、海水浴の前に少しだけ歴史に思いを馳せていただければと願います。和田殿の魂も少しは浮かばれることでしょう。

第45回 11月27日放送分【鎌倉最大の悲劇。鶴岡八幡宮、雪の大階段から、鎌倉はまた新たな激動期を迎え…】

北条泰時らが警護する中、雪の鶴岡八幡宮で実朝の右大臣拝賀式が執り行われます。

銀杏の木の陰に身を隠す公暁。儀式を見守る三浦義村。義時もまた太刀持ちを外され、自らの命運を賭け、事態を階下から静観していました。

そして牡丹雪が降り積もる中で公暁により突然おこなわれた凶行。和歌を愛した心やさしき三代鎌倉殿・実朝は兇刃に倒れました。

鎌倉への不信感を募らせる後鳥羽上皇。頼仁親王を次期鎌倉殿とするかどうか。義時と後鳥羽上皇らとの新たな駆け引きが始まります。

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登場したゆかりの地
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鶴岡八幡宮

源頼義が石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したことに由来します。1180年に源頼朝が現在地に遷し、放生会や流鏑馬を奉納。以来、さまざまな幕府儀礼が行われました。幕府滅亡後も、後続する足利、後北条、徳川などからも部門の守護神として信仰されました。

住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
駐車場:あり(普通車40台、1時間まで600円以降30分毎300円)
連絡先:0467-22-0315

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源実朝公御首塚

甥の公暁によって殺された源実朝公御首(みしるし)は、公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴らによって秦野の地に持ちこまれました。そして当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられています。毎年11月23日には「実朝まつり」が開催されています。

住所:神奈川県秦野市東田原1018-2番地
駐車場:なし
連絡先:0463-82-9648

YouTuberミスター武士道的視点で“11月放送まとめ記事”

1か月に渡って描かれた3代将軍・実朝の悲劇
  • ミスター武士道
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    いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。
    今回も11月の『鎌倉殿の13人』を振り返っていきましょう!

    11月は、鎌倉幕府3代目将軍・源実朝を徹底的に描く1か月でした。
    和田義盛の死をきっかけに、覚醒した実朝は『鎌倉を源氏の手に取り戻す』と宣言し、父・頼朝が行い、兄の頼家が成しえなかった親裁(御家人たちによる合議制ではなく、鎌倉殿が政治的判断をする方法)を目指しました。

    最初に着手したのは、唐船の建造。東大寺の大仏を再建させた実績を持つ陳和卿の力を借りて、巨大な船を作り、宋の国へ渡る計画を立てました。実朝は聖徳太子にあこがれていたようで、彼と同じように大陸の文化を鎌倉へ持ち帰り、その威光を御家人たちに示したかったのかもしれません。

    この壮大な計画を実現するために、実朝の側近として北条泰時が奔走。建造に従事する御家人たちの支持を得るために、柱に御家人たちの名を刻むという泰時の提案は、現代のクラウドファンディングのようでした。

    鎌倉随一の建築家という設定になっている八田知家も、隠居する前に夢のある仕事に携わることができたと満足げです。(まさか、あのマッチョが隠居直前の年齢設定だとは思いませんでしたが笑)

    ところが、それを良く思わないのが執権・北条義時……船の重量が狂うように細工を施し、実朝の夢は、海に浮かぶことなく朽ち果てました。
    とても主人公がやることとは思えません。

    それでもめげない実朝は、朝廷との結びつきをより強くし、さらに自身の立場を身軽にするため、京の貴族から養子を取る決断をします。

    そんなことをしては朝廷に付け入る隙を与えるだけだと反対する義時に対して、泰時と政子は実朝を支持。政子の交渉の甲斐もあって、後鳥羽上皇の皇子・頼仁を次の鎌倉殿として迎え入れる準備が進みます。

    朝廷の有力者、藤原兼子と互角に渡り合い交渉を成立させた政子ですが、政治家としての成長を実感しましたね。1年通して政子の生涯を見届けてきた我々にとっては、思いもひとしおです。

    皇子の下向も内定し、政子は従三位♡に、実朝は内大臣へと昇任と何もかもが上手くいく中、歴史を塗り替えたあの男、公暁が鎌倉へ帰ってきました。なんと最悪なタイミングなのでしょうか。

    公暁は先代の鎌倉殿、頼家の遺児です。実朝に跡継ぎがいないなら、自分が次の鎌倉殿にと意気揚々と凱旋したわけですが、ふたを開ければ皇子の下向が内定し、自らが鎌倉殿になる芽が無くなったことを知ります。

    そんな公暁を焚きつけたのが、三浦義村。公暁の乳母夫(めのと)という立場から、公暁が鎌倉殿になれば権力を握れると踏んで、実朝&義時暗殺計画を企てました。

    もし公暁が鎌倉殿になれば、朝廷との約束を反故にするだけでなく、後鳥羽が信頼していた実朝を殺害するわけですから、三浦が朝敵に認定される可能性もあるわけです。

    クレバーな義村にしてはかなり大胆な決断だったため、もしかしたら裏では義時と繋がっているのか?とも思いましたが、本気で義時を殺そうとしていたことが後に明らかになりましたね……これには驚きました。

    そのほかにも、公暁の計画に勘付いていながら見逃そうとする義時や、義時を執権の座から引きずり下ろそうとする源仲章の思惑なども混じって、歴史的大事件、実朝暗殺は思わぬ形で幕を閉じました。
    実朝が、天命を受け入れようと、公暁の襲撃にあらがうことなく殺されてしまったのです。

    なんと悲しい最期でしょうか。
    鎌倉に訪れれば、必ずお参りする八幡宮の階段で、こんな悲劇が起きていたかもしれないとは……

    実朝が遺した歌は、

    出でていなば 主なき宿となりぬとも
    軒端の梅よ 春を忘るな

    二度と帰れなくなることを軒端の梅に告げる歌ですが、御台所(千世)に対する別れの歌でもありました。辛すぎます。

    結局、公暁は三浦義村の裏切りによって討たれ、鎌倉は鎌倉殿不在の一大事に。

    実朝の良き理解者であった泰時は、実朝を見捨てた父の野望を止めると宣言。受けて立つと言い放った義時は、天下の仏師・運慶に自分の像を作るように命令しました。

    自身を神仏と一体化させた偶像を作り、権威を誇示する。やってることが完全に魔王です。

    最後まで義時は、悪の道を突き進むのでしょうか。
    そして、息子たちを全て失い、悲しみに暮れる政子はどうなるのか?
    実朝暗殺で、幕府への不信感が頂点に達した後鳥羽上皇はどのような決断をするのか?
    絶望に打ちひしがれる視聴者たちの最後の希望、俺たちの泰時は、魔王義時を止めることができるのか!?

    泣いても笑っても残りあと3回。鎌倉の行く末を最後まで見届けましょう。

第46回 12月4日放送分【後鳥羽上皇と義時の駆け引きが激化。そんな折、尼御台・政子がある決意を…】

実朝、公暁の死によって源氏の嫡流は、阿野全成と実衣の長男、阿野時元だけとなり、母の実衣は愛息を次の鎌倉殿にと画策します。

しかしそれは三浦義村と義時の罠で、挙兵を試みた時元は義時の差し向けた兵に包囲され自害、実衣も牢に幽閉されてしまいます。

一方、朝廷から迎える鎌倉殿は、僧・慈円の身内でもある2歳の三寅に決まり、その元服まで執権として義時が鎌倉を治めると宣言しますが政子はそれに反対。自身が鎌倉殿の代わりとして尼将軍になると決意し、囚われの妹・実衣の放免を実現し…

第47回 12月11日放送分【義時と後鳥羽上皇の駆け引きはもつれ、ついに鎌倉最大の危機へ。そして北条政子の大演説が始まる…】

朝廷の内裏が焼け落ち、その再建費用を日本中の武士たちから徴収すると後鳥羽上皇は決めました。

要求を先送りすることにした鎌倉に業を煮やした後鳥羽上皇は、御家人たちに義時を朝敵として追討するよう命じ、鎌倉の分断を謀ります。

上皇の院宣に混乱する鎌倉。義時は一人、自らの命と引き換えに、鎌倉を守ろうと覚悟し、御所に御家人たちを招集します。

恭順か戦闘か。決断を迫られる鎌倉で、尼将軍・北条政子が御家人たちの前で演説を行い…

第48回 12月18日放送分【承久の乱に勝利!泰時が新たな武士の世を思い描く一方、義時が受ける「報い」とは!?】

承久の乱は、北条泰時が幕府の総大将として快進撃を続け鎌倉方の勝利に終わりました。

北条義時は、後鳥羽上皇を隠岐へ流罪とし、泰時、時房を朝廷の動きを監視する六波羅探題として、京都に駐留させました。

乱の平定から三年後、義時は体調を崩し、京より取り寄せた「薬草を煎じた飲み薬」を妻ののえから勧められますが、改善は見られず悪化。見舞いに訪れた政子としばし来し方のことを語り合いますが、ついに昏倒してしまいます。

YouTuberミスター武士道的視点で“12月放送まとめ記事”

ついに最終回を迎えた北条姉弟の物語
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    いや~乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。ついに『鎌倉殿の13人』も最終回を迎えました!さっそく12月を振り返っていきましょう!

    12月の放送は、実衣の失脚、政子の演説、義時の最期と、初回から登場していた北条ファミリーの3人にスポットが当てられた、締めくくりにふさわしい1カ月でした。

    実衣は実朝の死をきっかけに、息子の阿野時元が鎌倉殿になるように画策するも、計画は筒抜けになっており、失敗に終わります。 愛する夫・全成、長男の頼全に続き、時元までも失った実衣。姉の政子にはずっと対抗心を燃やしていた彼女でしたが、政子と同じ境遇になって初めて二人の心が通じ合いました。全てを失って心が通うなんて、あまりにも悲しすぎます。
    義時は、たとえ家族でも実衣の行いを許せないとし、『耳鼻削ぎのうえ、流罪』という恐ろしい処罰を与えようとしましたが、『尼将軍』を名乗ることを決意した政子によって実衣は救われました。
    一方、義時の暴走は止まらず、ついに後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発します。
    それまで、「私に敵はいない」「鎌倉は自分のもの」と豪語していた義時でしたが、まさかの朝敵認定にはさすがにうろたえていましたね。

    義時本人は死を覚悟して、泰時に後を託そうとしますが、これを政子が救います。
    あの有名な政子の演説ですね。「頼朝様への御恩は海よりも深く、山よりも高い……」が聞けるのかと思いきや、政子は大江さんの作ってくれたカンペを読むのをやめて、自分の言葉で御家人たちに訴えました。この展開には痺れました…!
    闇堕ちし、人望も失いつつあった義時を、政子だけは見捨てなかったのですね。義時のやってきたことは、私利私欲ではなく鎌倉のためだった。政子の熱い演説で御家人たちは奮い立ち、ついに承久の乱が始まります。

    総大将の泰時が18騎で出陣すると、坂東の御家人たちが追従し、幕府軍は10万を超える大軍になりました。後鳥羽上皇は藤原秀康・三浦胤義らに迎撃を命じますが、幕府軍が圧勝。寝返りの機会を伺っていた三浦義村も動けないまま決着がつきました。
    宇治川の決戦では、泰時の従者・鶴丸(平盛綱)が矢を受けて、あわや戦死かと思われましたが、無事生き延びており一安心しました。鶴丸は幼いころに川で溺れかけたところを八重さんに救われましたが、今回も八重さんの加護があったのかもしれません。

    敗北した後鳥羽上皇は、責任を秀康・胤義らに押し付け保身に走りましたが、許されることはなく、隠岐の島への配流が決定します。
    上皇は逆輿で隠岐まで送られることになりますが、迎えにきたのはなんと文覚。頼朝の挙兵に尽力した(うさんくさい)僧侶でしたが、色々とやらかしてしまい何度も流罪に処された人物です。文覚の登場でシリアスムードは一転。文覚はなぜか上皇様の頭にかぶりつき、賑やかに退場していきました。後鳥羽上皇は隠岐の島で生涯を終えますが、文覚が一緒にいたら、少しは楽しく暮らせたのかもしれませんね……笑

    そして、承久の乱が終わるとついに義時の最期です。これまで多くの命を奪い、手を汚してきた義時にどのような報いが訪れるのか。我々視聴者も固唾をのんで見守ります。

    まずは運慶に依頼していた仏像が完成します。神仏と一体となった自身の像を天下の運慶に彫らせることで、その権力を誇示しようと考えていた義時でしたが、出てきたのはとても醜悪な像でした。運慶曰く義時に瓜二つということで……禍々しく闇に堕ちた義時を的確に表現したように思えます。権力では誰も逆らえなくなった義時に、芸術で一矢報いた運慶はアッパレでした。最後はどこかへ連れていかれてしまいましたが、あの運慶の満足そうな表情は忘れられません。
    運慶の仏像を斬り捨てようと刀を抜いた義時でしたが、突如転倒してしまいます。妻・のえに盛られた毒が効いてきたようです。
    のえは初登場時から欲深い女性として描かれ、あまり評判はよくありませんでしたが、決して悪人だったわけではありません。しかし、義時にぞんざいな扱いを受け、彼女もまた闇堕ちしてしまいました……。
    執権の後継者を泰時ではなく、自身が産んだ政村にしたいのえは、三浦義村と結んで義時を殺そうとしたのです。
    義村、またお前か。と思わず突っ込んでしまいましたが、2人の思惑通り義時は衰弱していきました。
    佐々木医師の診断で、飲んでいた薬が毒だったことがわかった義時は、のえと義村をそれぞれ問い詰めます。のえとは訣別、義村とはちゃっかり和解しましたが、お互いに言いたい事を全て言えてよかったのかもしれません。御所を去ったのえちゃんには強く生きてもらいたいものです。毒を盛ったのえちゃんは確かに悪いですが、これまでの義時の振る舞いを考えれば、毒を盛られても文句は言えないでしょう。私はのえちゃんが嫌いになれません。

    体調が悪化した義時は、ついに最後の時を迎えます。縁側で政子と語らう中で、うっかりと口を滑らせてしまう義時。病気で死んだはずの頼家が、実は義時によって殺されたことを政子は知ってしまいました。実朝も死の直前にこの事実を知って驚愕していましたが、政子も知らなかったのですね。(うすうすは気づいていたようですが)
    政子は、義時の薬を捨ててしまい、義時を見殺しにしました。
    そこには、息子を殺された恨みもあったでしょうが、災いの種となっている廃帝(先代の天皇)を殺害しようと目論んでいる義時に、これ以上手を汚させまいとする、慈悲の心もあったように思います。
    死に際の義時も、それをわかって政子を恨んでいる様子はありませんでした。最後は頼朝から受け継いだ持仏観音を、太郎(泰時)に託すように懇願して息を引き取りました。

    鎌倉殿の13人は、北条義時と姉の政子、この姉弟2人の物語だったように思います。そう考えると、これ以上無い最高の幕引きだと私は思いました。1年間、このドラマを追いかけてきて本当に良かったと思える終わり方でした。

    1年間、共に鎌倉殿を見届けた皆様、私の解説や感想記事にもお付き合いいただきありがとうございました。
    このドラマを通じて、日本の歴史、鎌倉を始めとした神奈川県やその周辺の歴史を知ることができ、本当に楽しい1年間でした。

    だがしかし!!欲を言うのであれば、まだまだこの鎌倉の続きが見たいです。
    のえは政村を執権に就かせることを本当に諦めてしまったのか?義村は北条を支えるとは言っていたが、泰時ではなく政村を支える気ではないのか?
    泰時は、父の跡を継いで、立派な鎌倉幕府を創ることができるのか?!
    まだまだ飽き足らない鎌倉殿の13人。ドラマは終わっても、物語は続いています。
    義時死後の鎌倉に想いを馳せながら、また鎌倉幕府ゆかりの史跡を巡ってみたいと思います。

    ミスター武士道

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