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稲村ヶ崎の龍神伝説【歴旅コラム】

稲村ヶ崎の龍神伝説【歴旅コラム】

かながわの景勝50選 稲村ヶ崎

  • 稲村ヶ崎 かながわの景勝50選の碑(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)
鎌倉にはかながわの景勝50選が3ヶ所ありますが、今回は「稲村ヶ崎」のご紹介です。「稲村ヶ崎」の名称の由来は、稲穂を重ねたように見えることからと云われています。鎌倉の海岸、由比ヶ浜と七里ヶ浜を分ける岬です。

万葉集(巻14-3365)には、「鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ」と詠まれていて、「稲村ヶ崎」がその地であるとも伝わります。
  • 稲村ヶ崎からの「江の島」と「富士山」(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)
ここの砂浜が全体的に黒っぽいのは、地中に含まれる砂鉄のため。新編鎌倉志(江戸時代)には「黒きこと漆の如し日に映ずれば銀の如し」と記され、古くから、良質な砂鉄が採れるということで、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたのかもしれません。

「稲村ヶ崎」というと、まず思い出されるのが、新田義貞の龍神伝説ではないでしょうか。

元弘3年(1333年)5月8日、後醍醐天皇の綸旨を受けて、新田義貞は、新田荘生品神社で鎌倉幕府討幕の旗揚げをします。小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いと一時退却させられることはあっても、一路鎌倉に向けて進軍、僅か10日後の18日には鎌倉を取り囲み、仮粧坂、極楽寺坂、巨福呂坂という鎌倉の三つの切通に総攻撃をかけます。ただし、三方を山、一方を海に囲まれ、守りやすく攻められにくい天然の要塞『鎌倉』を、そう簡単には落とせません。攻めあぐんだ義貞は21日未明、この稲村ヶ崎で黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈願すると、潮が大きく引き、幕府の水軍が沖へと流され、岸壁沿いに鎌倉に攻め入ることが出来たと伝わります。源頼朝以来、約150年続いた鎌倉幕府はこうして滅亡しました。

この伝説は、明治から大正にかけて、当時の文部省が編纂した尋常小学唱歌「鎌倉」の中で、「七里ヶ浜の磯づたい稲村ヶ崎名将の剣投ぜし古戦場」と歌われています。
稲村ヶ崎石碑(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)

というわけで何といっても、古戦場として名高い稲村ヶ崎ですが、一帯は風光明媚な海浜公園として整備されています。公園内に点在する記念碑めぐりもおすすめです。稲村ヶ崎に詳しくなれます。高台の東屋までぜひ上がってください。
  • 夕暮れの景色(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)
かながわの景勝50選の石碑は公園下に建ちます。ここから腰越海岸越しには、江の島や富士山が見え、天気がよければ海の向こうに伊豆大島や伊豆半島の山々も望むことが出来ます。夕陽が富士山頂に輝くダイヤモンド富士も、春と秋に年2回、4月上旬と9月上旬に楽しめます。
  • 稲村ヶ崎(東側)(撮影:鎌倉ガイド協会 松林)

ビーチは映画『稲村ジェーン』をはじめ、数々の作品の舞台でも知られ、サーファーの憧れの地としても有名です。伝説の大波を待って開催される「イナムラ・サーフィンクラシック」を耳にされた方も多いと思います。

いかがですか?「稲村ヶ崎」を未だ訪れたことがないのでしたら、ぜひ一度お越しください。古都鎌倉の歴史にも触れられますし、海風に当たりながら眺める絶景は、きっと心に残るでしょう。

記事提供:NPO法人 鎌倉ガイド協会

(記事公開日:2020/11/17)

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