鎌倉の花 妙本寺の海棠【歴旅コラム】
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妙本寺の海棠(カイドウ)
鎌倉で花や木といえば、季節により様々ですが、必ずその中の一つに「海棠」を思いつくのではないでしょうか。海蔵寺や光則寺の海棠も大変美しいのですが、今回は妙本寺の海棠のご紹介です。
鎌倉駅から徒歩10分程、大町にある日蓮宗妙本寺。この地は比企能員一族が住む谷戸であったところから「比企谷(ひきがやつ)」と呼ばれています。
* 比企能員は令和4年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中に含まれる幕府の有力御家人です。
建仁3年(1203年)、比企一族は、第三代将軍源実朝をめぐる北条時政の謀略により滅ぼされます(比企の乱)。この時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企能本。能本は、後に日蓮聖人に帰依し、自らの屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。
広大な境内には比企一族の供養塔が並ぶ一角があり、比企の乱で亡くなったという第二代将軍源頼家の子、一幡の袖塚、また、少し離れたところには同じく比企の乱で自害したという能員の娘で頼家の妻、若狭局を祀る蛇苦止堂もあります。
こんな悲しい歴史を秘めた妙本寺ですが、春先、祖師堂前に咲く「海棠」が有名。先に挙げた2寺と共に、鎌倉三大海棠に数えられます。実は、ある女性をめぐって8年間絶交状態にあった小林秀雄と中原中也が、晩春の暮方、連れ立って訪れ、散りゆく海棠を眺めながら形の上では和解した場所になります。
鎌倉駅から徒歩10分程、大町にある日蓮宗妙本寺。この地は比企能員一族が住む谷戸であったところから「比企谷(ひきがやつ)」と呼ばれています。
* 比企能員は令和4年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中に含まれる幕府の有力御家人です。
建仁3年(1203年)、比企一族は、第三代将軍源実朝をめぐる北条時政の謀略により滅ぼされます(比企の乱)。この時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企能本。能本は、後に日蓮聖人に帰依し、自らの屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。
広大な境内には比企一族の供養塔が並ぶ一角があり、比企の乱で亡くなったという第二代将軍源頼家の子、一幡の袖塚、また、少し離れたところには同じく比企の乱で自害したという能員の娘で頼家の妻、若狭局を祀る蛇苦止堂もあります。
こんな悲しい歴史を秘めた妙本寺ですが、春先、祖師堂前に咲く「海棠」が有名。先に挙げた2寺と共に、鎌倉三大海棠に数えられます。実は、ある女性をめぐって8年間絶交状態にあった小林秀雄と中原中也が、晩春の暮方、連れ立って訪れ、散りゆく海棠を眺めながら形の上では和解した場所になります。
当時、小林は鎌倉扇ガ谷に住んでいて、それを承知してのことか、ある日中也が同じ扇ガ谷寿福寺境内の家に引越してきたのだそうです。以降、交流は復活したものの、その年の秋に中也は亡くなりました。小林も亡くなった今となっては、真相を知る術もありません。 海棠もそれから数えて3代目。悠久の時は流れます。
(撮影:鎌倉ガイド協会 足立)
海棠の手前、一幡の袖塚の隣に、田邊新之助による漢詩碑が建ちます。田邊新之助は、逗子開成中学校や鎌倉女学校(現鎌倉女学院)を創設、漢詩人としても活躍したほか、洋画家の黒田清輝らと「鎌倉同人会」を設立、鎌倉の寺社-史跡の保存など町づくりに貢献しました。海棠花下吟 <海棠の花の下に吟ず>
嫩葉穠葩緑擁紅 <嫩葉穠葩(どんようじょうは)緑紅を擁す>
祇園雨霽洽光風 <祇園雨霽(は)れて光り風洽(あまね)し>
山僧説法花陰午 <山僧法を説く花陰の午(ひる)>
髣現閻浮七寶宮 <髣(ほのか)に現ず閻浮七寶(えんぶしっぽう)の宮>
海棠はバラ科リンゴ属の落葉低木、染井吉野(バラ科サクラ属)の後に、紅の蕾から艶やかなピンク色のふっくらした花を少しうつむき加減につけます。花色は、徐々に薄く白っぽくなっていきますが、花期が短い桜と違い、1 ヶ月程は楽しめます。
花言葉は、「美人の眠り」。中国唐の時代、九代皇帝「玄宗」が寵姫であった「楊貴妃」の眠る姿に<海棠の睡り未だ足らず>と海棠の花の美しさになぞらえた事からきています。
さぁ、桜の後には文学散策も兼ねて、妙本寺のこの「海棠」をどうぞお忘れなく!
記事提供:NPO法人 鎌倉ガイド協会
(記事公開日:2020/12/18)