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長泉寺、報恩寺、宮久保遺跡

長泉寺、報恩寺、宮久保遺跡

御家人渋谷一族の活躍した時代の遺跡を辿る

綾瀬市の中世(鎌倉~室町時代)には、渋谷荘(大和市・藤沢市・綾瀬市近辺)といわれる渋谷一族が統治していた所領がある。初めに統治していた人物は、平安時代末期の渋谷重国という、桓武平氏のながれをくむ秩父平氏の一族で、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にもその記録が残っている。
重国の子孫の定心が鎌倉時代に支配していた綾瀬市域の地は渋谷荘を中心に早川・吉岡・寺尾・深谷・落合などであった。市内には同時期の遺跡(早川城跡・宮久保遺跡・五所神社遺跡・長泉寺遺跡など)も確認されている。渋谷定心は、重国の孫で「曾司(そし)」を名字として綾瀬市早川の長泉寺界隈に、息子重経(しげつね)は「寺尾」を名字とし寺尾の報恩寺界隈を基盤としていた。寺尾氏一族の譲状には法音寺もみえ、現在の寺尾報恩寺につながるものであろう。

長泉寺

  • 長泉寺(早川3146)
※長泉寺(早川3146)
曽洞宗のお寺で本尊は江戸時代造立の木造釈迦如来像。開山は格雲守存和尚である。三田村(厚木市)の清源院の末寺で、開基は渋谷金王丸と伝えられている。
境内の北東に少し離れて阿弥陀堂があり、祖師山菩提寺といわれ、鎌倉時代からの堂宇の所在地といわれている。渋谷一族の菩提寺と伝えられ、一族の供養塔と伝えられる石碑が残っている。

報恩寺

  • 報恩寺(寺尾南2-10-1)
※報恩寺(別名おたすけ観音)(寺尾南2-10-1)
報恩寺は、お助け観音 報恩寺縁起より、慶長7年(1602)8月28日曽洞宗の寺院として開山された。御開山は朝岩存夙大和尚(1618卒)、開基は後藤右近 心宗永伝居士と伝えられている。
また、同縁起には、27世大獄洞源大和尚は、現役入隊で台湾の生蕃討伐に参加し、山奥の作戦中、早朝、一人で滝の前で座禅中、滝の中に観音様を拝することができ、「観音様がついていてくださるから、敵の弾丸に当たる事がない」と感じられた。激戦で戦友達が多く戦死する中で、無事に帰還することが出来たので、この有難い観音様をひとりでも多くの方に拝んで頂こうと、観音石像を刻み境内に安置し、観音像を描いて、沢山の人に差し上げた、と書かれている。このことから、報恩寺は「おたすけ観音」として、第二次大戦中は、県内を始め東京等から数多くの人達がお参りに来られた。

宮久保遺跡

宮久保遺跡(早川1485-1)は早川地区の、蛇行して流れる目久尻川西岸にある。中世遺構としては12世紀から15世紀にかけての掘立柱建物27棟・柵列16本・井戸17基・その他が検出された。また田下駄・馬鍬などの農具のほか、鉄製の馬具、舶来の白磁・青磁器、「藤原顕長」の銘文が刻まれた陶器や経筒の銅製蓋などが出土しており、武士階級の居館跡と推定さている。
学校の下に眠る中世の人々の生活を思い描いて散策されてみてはいかがでしょうか。
  • 宮久保遺跡(現綾瀬西高等学校)(早川1485-1)
  • 宮久保遺跡の銘文
  • 蛇行して流れる目久尻川西岸にある綾瀬西高

(綾瀬市制40周年記念 歴史展:目久尻川流域の文化財 より)
添付写真:長泉寺・報恩寺・宮久保遺跡・宮久保遺跡銘文・綾瀬西高

記事提供:綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

(記事公開日:2022/3/18)

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