「徳川家康と小田原」東海道町歩き【歴旅コラム】
小田原には、小田原城跡、史跡石垣山、江戸城石垣石丁場跡と、3ヵ所の国指定史跡がある。天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一の最終仕上げとして、京都から東海道を東へ進み伝説の石垣山一夜城を本陣として、難航不落の小田原城に籠城する戦国大名の先駆け北条氏を攻め、戦いに勝利する。その時、秀吉側で参陣していた徳川家康は、小田原の東側に本陣をはり、およそ百日間在陣していた。
小田原合戦後、家康は江戸に移り、秀吉の命により徳川十六神将の一人大久保忠世が小田原藩祖になった。大河ドラマ「どうする家康」の影響もあり「家康と小田原」をテーマとし、ゆかりの地を巡る町歩きが大変人気となっている。中でも旧東海道沿いの主な名所・旧跡を紹介させていただく。
出発は小田原駅から箱根登山鉄道「箱根湯本行」に乗車し7分の「風祭駅」。風祭駅から旧東海道へでて西方へ行くと江戸から数えて21番目の「風祭の一里塚」がある。現在は小さな塚状の地が残され、脇には市の文化財である「道祖神」が祀られている。
山側へ進むと「萬松院」がある。家康の長男松平信康が武田家への内通などの罪を織田信長に問われ、家康はやむなく大久保忠世に信康を自害させるよう指示。後に小田原城主になった忠世が信康の霊を慰めるために建立した寺である。
小田原合戦後、家康は江戸に移り、秀吉の命により徳川十六神将の一人大久保忠世が小田原藩祖になった。大河ドラマ「どうする家康」の影響もあり「家康と小田原」をテーマとし、ゆかりの地を巡る町歩きが大変人気となっている。中でも旧東海道沿いの主な名所・旧跡を紹介させていただく。
出発は小田原駅から箱根登山鉄道「箱根湯本行」に乗車し7分の「風祭駅」。風祭駅から旧東海道へでて西方へ行くと江戸から数えて21番目の「風祭の一里塚」がある。現在は小さな塚状の地が残され、脇には市の文化財である「道祖神」が祀られている。
山側へ進むと「萬松院」がある。家康の長男松平信康が武田家への内通などの罪を織田信長に問われ、家康はやむなく大久保忠世に信康を自害させるよう指示。後に小田原城主になった忠世が信康の霊を慰めるために建立した寺である。
次は旧東海道を小田原方面に1.5㎞程進むと戦国時代に敷設され日本最古の水道といわれて家康が学んだ「小田原用水の取水口」だ。家康が家臣の大久保藤五郎に命じ敷設したのが江戸の小石川用水だ。
東海道の旧道に入り、用水沿いに進むと、家康に直接声をかけられて関八州石工棟梁を命じられ、江戸城の石垣普請時に日本橋に屋敷地を拝領した青木善左衛門石材店がある。邸内には石祠で造った「東照宮」が祀られている。
旧道を抜け板橋見附に出ると「光円寺」がある。寛永9年(1632)に小田原城主となった稲葉正勝の母(徳川家光の乳母であった)春日局が建立した寺である。となりには北条氏綱が創建した小田原三大明神社の一つ「居神神社」。ななめ向かい側には幼いころから家康に仕え小田原藩の藩祖となった大久保忠世を開基とする大久保家の菩提寺「大久寺」と、名所が連続する。
熱海道を横切り、さらに東へ進み、山側に小田原城天守閣を眺め、海側の「かまぼこ通り」に面した参道から「無量寺」に入る。家康が市中巡覧の際に「不老山・壽松院」の号が気に入り引き立てた寺であると言われている。本堂にある家康公の夫婦像を拝観し寺を後にする。
数分進むと今回のコースのゴールである江戸時代の旅籠を利用した「小田原宿なりわい交流館」に到着する。風祭駅から約7km、ほぼ平坦で見所満載の町歩きコースである。
記事提供:小田原ガイド協会