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神奈川の東海道と平塚宿の『お菊塚』【歴旅コラム】

神奈川の東海道と平塚宿の『お菊塚』【歴旅コラム】

徳川家康が慶長6年(1601)に宿駅伝馬制度を導入し、東海道に53の宿場が順次整えられた。神奈川県内では、川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根の9カ所に宿場が設けられ、当時の宿場施設はほとんど見られなくなったものの、一部の跡地でその面影を感じることができる。保土ヶ谷宿には本陣の一部も現存し、東海道沿いに築造された20カ所ある一里塚の内、品濃・茅ヶ崎・畑宿は、今でも当時の姿が偲ばれる。

県内東海道の約6割は並木道といわれ、大磯の松並木や箱根の杉並木は、多くの観光客に親しまれている。何といっても人気NO.1は東海道から垣間見えるあの富士山の雄姿ではないか。魅力あふれる神奈川の東海道である。

平塚宿は江戸を出てから7番目。徳川家の中原御殿から最も近い東海道の宿場として設営された。大磯方面にはお椀を伏せたような高麗山がシンボルとしていつも見えている。
  • 平塚宿から大磯宿へ向かう途中でシンボルの高麗山が迎えてくれる
平塚駅西口近くの紅谷町公園の一角に『お菊塚』がある。この塚の主は怪談『番町皿屋敷』のヒロインお菊と伝えられる。由来によると、お菊は平塚宿の宿役人であった真壁源右衛門の娘という。番町に住む旗本青山主膳の屋敷に行儀見習い奉公に出ていたところ、不注意で主人の家宝南京絵皿十枚組の一枚を割ってしまい、主膳がお菊を斬り捨てて井戸に投げ込んだという。(諸説あり、お菊にふられた主膳の家来が罪をなすりつけたとも。)

お菊の遺体は処刑人の例に倣い長持に詰められて平塚宿に戻され、馬入川の渡しで遺体を迎えた父親の源右衛門は「物言わぬ 晴れ着姿や すみれ草」と詠み絶句したという。罪人扱いでは墓を作ることもできず、晴雲寺の真壁家墓地近くに埋めセンダンの木を植えて墓標に代えたとされる。

その後、青山主膳の屋敷では井戸からお菊の幽霊が現れ、さまざまな祟りが起きたと伝えられている。後にこの話は岡本綺堂の『番町皿屋敷』で、井戸の中からお菊の亡霊が現れ「お皿が一ま~い、二ま~い・・・九ま~い、あと一枚足りない」と皿を数える怪談となり、今も語り継がれている。
紅谷町公園入口に立つ石碑

昭和27年(1952)の区画整理で晴雲寺は平塚の立野町に移転することになり、墓地と一緒にお菊の墓も移設しようとしたものの工事にたびたび支障が出てトラブルが続いた、という怖い話も残る。お菊の遺骸は伝承通りにセンダンの木の根元から座り姿のままで発見されたという。

晴雲寺の跡地は今では紅谷町公園となり、もともと埋葬されていた場所はその公園の一角に残され『お菊塚』の石碑が置かれている。

  • 『お菊塚』の石碑(紅谷町公園内)
記事提供:NPO法人 東海道ウォークガイドの会

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