旧東海道 神奈川宿の歴史散策【歴旅コラム】
徳川家康により整えられた東海道の開設当初、神奈川宿は起点の日本橋からは品川宿の次の宿場としてスタートし、日本橋から約28Km、隣の保土ヶ谷宿へは約5Kmに位置した。その後、川崎、戸塚などの宿場も加わり、東海道五十三次へと発展して行った。
神奈川宿の地は、東海道五十三次の宿場町として栄えただけではなく、遥か以前の平安時代後期から、霊験あらたかな場所として神社・仏閣も多く開かれた(熊野神社、金蔵院等)。また鎌倉時代以降は、品川や六浦(金沢)と並び江戸湾に面した物流、陸海交通の主要な拠点(神奈川湊)としても栄えた。更には幕末・明治維新にかけて、日本の夜明けの重要な歴史舞台になるなど(日米修好通商条約による開港場の候補、領事館等の開設等)、多面的な顔を持つ場所であった。
歴史を活かした街づくりの一環として整備された「神奈川宿歴史の道」沿いは、興味深い史跡で満ち溢れており、その内のいくつかを紹介する。
《金蔵院と神奈川御殿》
金蔵院は平安時代後期に開創された勅願寺で、同時期に創建された神奈川熊野神社の別当寺でもあったと言われている。寺伝によると、徳川家康は後北条氏(氏直)との戦いに際しこの寺社に戦勝祈願をし、戦わずして勝利した。これを喜んだ家康は金蔵院に寺領地を寄進し、両者の結びつきは一層強まり、上洛の折り金蔵院に宿泊した。その後、近くに神奈川御殿が造営されたが、三代将軍家光の上洛以降は上洛が途絶え、17世紀末頃までには取り壊されたようである。この辺りにはかつて「御殿町」の町名があり、また現在も京浜急行線「仲木戸(現京急東神奈川)」の駅名にその名残がある。
《高札場》
神奈川宿のジオラマが展示される「神奈川地区センター」の前には高札場がある。元々、神奈川宿を構成する二つの町(神奈川町と青木町)の堺を流れる滝の川にかかる橋の近くにあったものを、資料をもとに移設復元したものである。高札には幕府や領主が定めた掟や、隣の宿場までの駄賃額なども書かれ、仰ぎ見るように高く掲げられていた。
歴史を活かした街づくりの一環として整備された「神奈川宿歴史の道」沿いは、興味深い史跡で満ち溢れており、その内のいくつかを紹介する。
《金蔵院と神奈川御殿》
金蔵院は平安時代後期に開創された勅願寺で、同時期に創建された神奈川熊野神社の別当寺でもあったと言われている。寺伝によると、徳川家康は後北条氏(氏直)との戦いに際しこの寺社に戦勝祈願をし、戦わずして勝利した。これを喜んだ家康は金蔵院に寺領地を寄進し、両者の結びつきは一層強まり、上洛の折り金蔵院に宿泊した。その後、近くに神奈川御殿が造営されたが、三代将軍家光の上洛以降は上洛が途絶え、17世紀末頃までには取り壊されたようである。この辺りにはかつて「御殿町」の町名があり、また現在も京浜急行線「仲木戸(現京急東神奈川)」の駅名にその名残がある。
《高札場》
神奈川宿のジオラマが展示される「神奈川地区センター」の前には高札場がある。元々、神奈川宿を構成する二つの町(神奈川町と青木町)の堺を流れる滝の川にかかる橋の近くにあったものを、資料をもとに移設復元したものである。高札には幕府や領主が定めた掟や、隣の宿場までの駄賃額なども書かれ、仰ぎ見るように高く掲げられていた。
《宗興寺の大井戸》
二代将軍秀忠の上洛時、神奈川宿に休泊の折り、境内脇の「神奈川の大井戸」と呼ばれた井戸の水は茶の湯に指定されるほどの名水だった。また、明治天皇の御東幸時にも御用水に指定されたと言われている。更に、米国人宣教師・医師のヘボン博士(J.C.Hepburn)も、文久元年(1861)4月から9月の5カ月間、この寺で日本人患者の診療に当たりこの井戸水を利用した。
《景勝地・台町》
茶屋町として名を馳せた台町は、神奈川湊を見下ろし、袖ヶ浦の入り江に面した高台にあった。対岸には横浜村の砂州なども望め、歌川広重の浮世絵の題材になるほどの景勝地だった。沿道には茶屋が軒を並べ、旅人を招き賑わい、十返舎一九作「東海道中膝栗毛」の中にも、弥次さん・喜多さんが立ち寄った様子が描かれている。また、この高台を登り切った先には、往時を偲ぶ「神奈川台関門跡」や「袖ヶ浦見晴所」の石碑がある。
二代将軍秀忠の上洛時、神奈川宿に休泊の折り、境内脇の「神奈川の大井戸」と呼ばれた井戸の水は茶の湯に指定されるほどの名水だった。また、明治天皇の御東幸時にも御用水に指定されたと言われている。更に、米国人宣教師・医師のヘボン博士(J.C.Hepburn)も、文久元年(1861)4月から9月の5カ月間、この寺で日本人患者の診療に当たりこの井戸水を利用した。
《景勝地・台町》
茶屋町として名を馳せた台町は、神奈川湊を見下ろし、袖ヶ浦の入り江に面した高台にあった。対岸には横浜村の砂州なども望め、歌川広重の浮世絵の題材になるほどの景勝地だった。沿道には茶屋が軒を並べ、旅人を招き賑わい、十返舎一九作「東海道中膝栗毛」の中にも、弥次さん・喜多さんが立ち寄った様子が描かれている。また、この高台を登り切った先には、往時を偲ぶ「神奈川台関門跡」や「袖ヶ浦見晴所」の石碑がある。
記事提供:NPO法人 横浜シティガイド協会