浮世絵片手に藤沢宿を歩いてみれば【歴旅コラム】
はじめに浮世絵を一点ご紹介しましょう。
初代歌川広重は『東海道五拾三次』で藤沢宿のシンボル遊行寺を真正面に描き、手前の大鋸(だいぎり)橋(ばし)には大きな納(おさめ)太刀(たち)を担ぐ旅人、そして一(いち)の鳥居(とりい)下には座頭姿を描いて、大山(おおやま)参(まい)りや江島(えのしま)詣(もう)での旅人で賑わった様子を活写しています。
こうした旅人で賑わった藤沢宿ですが、実はそれよりずっと前から、鎌倉時代に開かれた遊行寺(時宗総本山藤澤山(とうたくさん)清浄光寺(しょうじょうこうじ))の門前を往来する人々の賑わいもあり、また、室町時代には伝馬制度で宿駅とされていましたから、鎌倉(かまくら)公方(くぼう)や小田原北条氏に仕えた工匠のように経済力を持つ人々も集まっていました。
小田原攻めの後、関東に入った徳川家康は、慶長元年(1596)藤沢に御殿を築きます。関ヶ原合戦の翌年・慶長6年(1601)には東海道の駅制で伝馬宿とされ、その後、徳川政権が安定すると将軍家の宿泊施設であった藤沢御殿は廃止されますが、寛永11年(1643)には本陣・脇本陣なども設けられました。
江の島・大山・鎌倉などに向かう信仰や物見遊山の旅人で賑わった藤沢宿はまた、大山道や江の島道ばかりでなく、鎌倉道、滝山(八王子)街道、厚木道など重要な街道が集まる流通の要衝で、団扇に喩えるなら東海道が柄、五つの街道に分かれる要(かなめ)の部分が藤沢宿でした。
こうした旅人で賑わった藤沢宿ですが、実はそれよりずっと前から、鎌倉時代に開かれた遊行寺(時宗総本山藤澤山(とうたくさん)清浄光寺(しょうじょうこうじ))の門前を往来する人々の賑わいもあり、また、室町時代には伝馬制度で宿駅とされていましたから、鎌倉(かまくら)公方(くぼう)や小田原北条氏に仕えた工匠のように経済力を持つ人々も集まっていました。
小田原攻めの後、関東に入った徳川家康は、慶長元年(1596)藤沢に御殿を築きます。関ヶ原合戦の翌年・慶長6年(1601)には東海道の駅制で伝馬宿とされ、その後、徳川政権が安定すると将軍家の宿泊施設であった藤沢御殿は廃止されますが、寛永11年(1643)には本陣・脇本陣なども設けられました。
江の島・大山・鎌倉などに向かう信仰や物見遊山の旅人で賑わった藤沢宿はまた、大山道や江の島道ばかりでなく、鎌倉道、滝山(八王子)街道、厚木道など重要な街道が集まる流通の要衝で、団扇に喩えるなら東海道が柄、五つの街道に分かれる要(かなめ)の部分が藤沢宿でした。
そして、藤沢宿を訪ねる旅人にはどうしても訪ねてみたいお目当てがありました。遊行寺参詣は勿論ですが、多くの道中記や案内書に紹介され小栗(おぐり)判官(はんがん)照手(てるて)姫(ひめ)の物語で知られた名所小栗堂(おぐりどう)(塔頭長生院(ちょうしょういん))や、白旗神社ゆかりの義経首塚・首洗井戸などは必見スポットでした。
旅人で大いに賑わった藤沢宿も明治3年(1870)には本陣が廃止され、さらに明治20年(1887)に藤沢停車場が開設されると、交通網の要という強みを活かし問屋業に転じた人々によって米穀肥料などの流通基地へと変身してゆきます。
このような宿場の変遷は、遊行寺門前の「ふじさわ宿交流館」で辿っていただくことができますから、是非訪ねてみて下さい。『東海道中膝栗毛』には、江の島への道をたずねる旅人が弥二・喜多コンビのとぼけた道案内に呆れる場面がありますが、ここに来ていただければ、楽しい交流と新発見が待っているはずです。
さて、藤沢宿から半里余り上方には大山道への分岐があり、四ツ谷の立場(たてば)と呼ばれ、その情景は浮世絵にも描かれています。道路整備などのため位置は少しズレましたが、今でも大山一の鳥居や四ツ谷不動と呼ばれる珍しい大山道標が置かれています。
そこからほど近くの「藤澤浮世絵館」では、価値ある浮世絵コレクションが常設展・企画展などで公開され、皆さんの来館をお待ちしています。
記事提供:江の島・藤沢ガイドクラブ