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鎌倉街道下の道(六浦路(むつらみち))/塩の道を歩く【歴旅コラム】

鎌倉街道下の道(六浦路(むつらみち))/塩の道を歩く【歴旅コラム】

源頼朝が幕府を開いて以来、鎌倉は政治の中心地として大都市になっていきます。頼朝は、関東周辺の武士達を集める為に、各地と鎌倉を結ぶ道の重要性を認識し整備することで、「いざ鎌倉」に備えました。東国武士が馳せ参じるこの軍事道路は、鎌倉街道と呼ばれていますが、今回ご紹介する鎌倉街道下の道(六浦路)は、物資輸送路としての性格も併せ持っていました。穏やかな海を持つ六浦は塩の産地であり、また、中国との交易品が集まる良い湊でした。

鎌倉市の郊外、十二所から出発です。十二所には、鎌倉時代(弘安元年(1278))に創建された古刹「岩蔵山 光触寺(こうそくじ)」が佇みます。
  • 光触寺ご本堂
もとは真言宗の寺で比企谷の岩蔵寺にはじまると伝わり、運慶が48日間で彫り上げたという阿弥陀如来像を本尊としているのですが、この阿弥陀仏は「頬焼阿弥陀」として知られ、由来を記した『頬焼阿弥陀縁起絵巻』には、次のような伝承が残されています。

鎌倉に町局という裕福な女性が住んでいたが、将軍実朝の招きで運慶が鎌倉に来た時、局は阿弥陀仏の彫刻を依頼し、運慶は立派な仏像を彫り上げた。局は尊像を持仏堂に安置しましたが、毎日の礼拝は長くは続かず、熱心に拝していたのは万歳法師という下男であった。

そんな折、局の物が失せたのを法師の仕業に違いないと思った局は、家人に命じて頰に焼きごてを押させ戒めたが、どうしても焼き跡がつかない。すると、局の夢枕に阿弥陀様が現れ、「何故、私の頰に焼き印を押すのか」と告げられた。持仏堂の仏様を見ると頰に焼きごての痕が。阿弥陀如来像の霊験に畏怖した局は、岩蔵寺を開いて、この像を祀り深く信仰したと云う。

岩蔵寺はその後、時宗に改宗し、念仏道場として栄えました。
  • 塩嘗地蔵
境内の一角には、塩嘗地蔵という変わった名のお地蔵様が祀られています。六浦地区の平潟湾沿岸では中世より明治期まで製塩が行われ、塩は朝夷奈切通を通って鎌倉や周辺地域に運ばれていました。六浦から切通を越えて行く商人たちは、峠の近くに佇むお地蔵様に初穂の塩を供えて、商売繁盛や旅の無事を祈りました。お供えした塩が帰りには無くなっていたので、お地蔵様が嘗めたものと思い、塩嘗地蔵と呼ばれるようになったようです。

さて次は、鎌倉七口の一つ、朝夷奈切通へ。
  • 朝夷奈切通碑から六浦方面を望む
第三代執権北条泰時は、金沢・六浦と鎌倉を結ぶこの朝夷奈切通の重要性をよく判っていたのでしょう。物資運搬のための路、いざ鎌倉という際の軍事力の確保の為、自ら足を運び土石の運搬にあたるなど開削に範を示しました。昭和31年に新道ができるまで700年余り重宝された街道・要路でした。

街道沿いに時を刻んだ石仏を発見したり、深く細く掘り下げられた小切通に驚いたり。
木漏れ日の中を歩く
小切通

さぁ、朝夷奈切通から六浦路(今の金沢街道)に出たら、あとはもう道なり。
相武の国境に残された磨崖仏(鼻欠地蔵)を横目に上行寺まで。かつての六浦湊は眼前に広がっていたはずです。

進む季節を感じながら古道を歩き、また一つ鎌倉の魅力を発見して下さい。

記事提供:NPO法人 鎌倉ガイド協会

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