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根府川通(熱海道、小田原道)…人車鉄道(真鶴城口駅~門川駅)も走った道【歴旅コラム】

根府川通(熱海道、小田原道)…人車鉄道(真鶴城口駅~門川駅)も走った道【歴旅コラム】

湯河原は三方を箱根外輪山の山々に囲まれ、南東は相模灘に面している。小田原からの国道135号線はほぼ海沿いを走っているが、その前身の根府川通は、海沿いや所々で山かごがやっと通れる程度の道幅で、高低差もある山道だった。
  • ①江戸時代の根府川通(現在は湯河原町吉浜海岸を走る国道135号線)
根府川通は小田原から湯河原、熱海を経て三島に至る道で、鎌倉幕府成立後は将軍家が二所詣に伊豆山神社などへ行く道として、戦国時代には小田原と韮山を結ぶ小田原北条氏の政治的・軍事的街道として、また江戸時代には根府川に関所が置かれ、箱根東海道の脇街道として使われた。明治14年(1881)、馬車や人力車も通れるように拡張整備され県道となった。

湯河原町内では柏坂の上に二軒の茶屋があったので茶屋道と呼ばれるが、現国道135号線を少し入った入口に「小田原道」(根府川通)の道標があり、町の指定文化財になっている。

明治を迎えると新たな交通手段として鐵道がもてはやされ、明治20年(1887)に鐵道は国府津まで開通したが、技術的限界から箱根の山塊を外側に迂回した現在の御殿場線を通ることとなり、湯河原、熱海は鉄道から見放されることを懸念した熱海温泉の旅館主らが中心となり、明治29年(1896)に小田原・熱海間の県道に人車鉄道を敷設した。
②人車鐡道の様子

この地域は坂道や急カーブが多く、建設費を抑え営業を採算に乗せるため、簡便な人車鉄道を採用した。軌間は61㎝、1日に6便、小田原・熱海間を所要4時間、車両は高さ2m・幅1.5mに満たない程小さく、6~8人を乗せ、車夫2~3人が押して進んだ。

  • ③湯河原温泉「味楽庵」店先(人車鉄道の車両)
運賃は小田原まで下ランクでも車夫の日当より高く、利用者は温泉客が主体。地元の人は盆正月や晴れの日以外は依然として徒歩であった。

標高差が130mもあり、急な上り坂では下等客は車夫と一緒に押した。下り坂ではスピードが出て、ブレーキをかけ損ない脱線転覆も珍しくなかった。

明治40年(1907)、軽便鉄道に切り替えられて軌間は76.2cmと広くなり、小田原・熱海間の所要時間も2時間40分と大幅に短縮された。芥川龍之介の短編小説「トロッコ」はこの時の路盤工事が舞台で、湯河原町川堀の文学青年力石平三が元となる作品を提供している。
  • ④軽便鉄道機関車(JR熱海駅前)

きつい勾配が連続し距離も長い御殿場周りの東海道線は、輸送力アップのため海沿いのルートに切替わり、湯河原に東海道線が来る。大正7年(1918)に丹那トンネルの工事を着工し、大正9年(1920)には国府津~小田原間の鉄道が開業、大正11年(1922)には真鶴駅まで延伸された。

これに伴い軽便鉄道は順次廃止され、湯河原~熱海間だけが残った。大正12年(1923)の関東大震災で、残る区間も破壊され全て廃線となった。震災後の大正14年(1925)、湯河原~熱海の鉄道工事が完成し熱海線が開通した。

昭和9年(1934)12月、15年間の難工事の末待望の丹那トンネルが完成し、東海道線は湯河原~熱海回りに変更された。熱海、湯河原の温泉には京浜地区からだけでなく、名古屋、大阪からもお客さんを迎え易くなり繁栄期を迎える事となった。

記事提供:湯河原観光ボランティア

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