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横浜道 開港場への道をゆく【歴旅コラム】

横浜道 開港場への道をゆく【歴旅コラム】

徳川幕府は安政5年(1858)に諸外国と通商条約を結ぶ。開港場は「神奈川」と明記されたが、どこにするのかが決まっていなかった。諸外国は神奈川宿を要求したが、幕府はトラブルを恐れ、東海道から離れた寒村の横浜村とした。当時、神奈川宿から横浜村へ向かうには洲崎神社前からの渡し舟か、保土ヶ谷宿から戸部村経由の保土ケ谷道を行くしかなかった。

諸外国の反対を押しきって開港場を交通不便な横浜村とした幕府は、東海道と横浜村を結ぶ交通手段を整備する必要に迫られ「横浜道」と呼ばれる新道を建設する。工期は安政6年(1859)3月から開港日の6月2日まで僅か3ヶ月の突貫工事で、架けられた橋はすべて仮橋だった。

文久2年(1862)の『横浜開港見聞誌』は、横浜道を「東海道神奈川西の宿はずれに、芝生(しぼう)村(むら)と青木村の間より海手に入る行程に、海岸には二尺まわりもある赤松の杭を二段に並べ、先をそろえて数十町ほども続き目をおどろかす」と紹介している。この東海道芝生村と青木村の間から海手にはいる道が横浜道で、起点(現在の横浜環状1号線下り・浅間下交差点手前左に入る道)に案内板が立っている。

五雲亭貞秀が『横浜平沼橋ヨリ…大師河原ノ裏ヲ見ル』で描いた新田間橋から戸部までの横浜道は江戸時代に開発された新田の先端部分で、海岸線には赤松の杭と石垣が続いている。左手の海は現在、横浜駅や高島屋、横浜ランドマークタワーなどビルが立ち並ぶ市街地になっている。
五雲亭貞秀 横浜平沼橋ヨリ…裏を見ル(横浜市中央図書館所蔵)
②新田間橋ヨリランドマークタワーヲ見ル

横浜道は新横浜通りに出て新田間橋を渡り、平沼橋手前を斜め右に入る。元平沼橋から先は東海道線で遮断されているので上の平沼橋を渡り右に降りる。平沼商店街をしばらく行くと敷島橋(旧石崎橋)。石崎川に架かるこの橋が「新田」の東端。かつて石崎関門があり、通過する武士・浪人に目を光らせていた。ここから先の海岸線は断崖絶壁となり、道は戸部村の内陸部に入る。

五雲亭貞秀は『神奈川横浜二十八景之内』で、湾曲した戸部坂を登りきった左手に神奈川奉行所を描いた。現在、湾曲した坂道は消えたが、地形は残っている。続く野毛の切通が最高地点であったが、切り下げ工事が繰り返され現在の高さになった。

  • 五雲亭貞秀 神奈川横濱二十八景之内(横浜市中央図書館所蔵)
切通の先を左に折れると視界が開け、野毛町から開港場が一望できた。
五雲亭貞秀 野毛村切通シヨリ横濱入口(横浜市中央図書館所蔵)

坂を下り大岡川の野毛橋(現・都橋)を渡ると吉田新田。再び赤松の杭が並ぶ土手の道を行くと終点の太田橋(現・吉田橋)。橋を渡り関門を通って開港場へ向かう。吉田橋関門は当初港町側にあったが、文久4年(1864)吉田町側に移された。関内・関外という呼び名はこの時からのこと。関門は明治4年(1871)に廃止され、今は「吉田橋関門跡」が残る。

  • 吉田橋関門跡

横浜道が整備されると、途中の景色を楽しみながら横浜町へ入ることが多くなった。『横浜開港見聞誌』は、「石崎町は茶店、旅籠屋軒を並べ賑わしく、野毛町は左右の茶店、酒屋、鮨屋、餅屋、水菓子屋が軒を並べ、花やかなる暖簾をかけている」と紹介している。

記事提供:NPO法人 神奈川区いまむかしガイドの会

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