三浦半島いにしえの道 「幕末の志士吉田松陰・三浦の古道を歩く」【歴旅コラム】
このような時代背景の中、熊本藩士宮部鼎蔵は吉田松陰とともに房総・相模を視察し、嘉永4年(1851)に「房相日記」を記した。
この日記に記された二人の足跡を追ってみよう、6月15日浦賀、久里浜、津久井を経て、現在の三浦海岸「上宮田の宝田に止宿。」とある。彦根藩海防陣屋の近くに宝田屋という旅籠があったようで、そこへ宿泊したのだろう。翌6月16日は、「最初は海防陣屋」とあるほか何も書かれていない。
「山を下り浜辺に出ると農舟があるので乗り、剣崎の台場の下に着く」「台場に上がると大浦と同じく番人がいないので、又台場を点検。」とある。剣崎(現剱埼)には、明治時代に灯台が置かれた。
「雨が上がり晴れたのに行き交う人はいない。大きな畑の中を過ぎて浜辺に下り里人に問えば金田という。道に迷ってしまったことを知る…時刻は既に正午に近い。茶店に入って飯を食べようとしたが、飯はなかったので酒を飲む…金田で食料として蕎麦粉を得た。」とある。空腹を酒で満たし、蕎麦粉はどのようにして食べたのか。剛健さに感服である。
続いて「原方面の道を行き、東岡を過ぎて三崎に至り、海辺にて昼食した。」このあと「渡舟で城ケ島に上陸し、安房崎の台場を見物、番人が居るのか分からない…島の一番高い所で磁針を使用する、富士山は北北西、下田は西南西、洲ノ崎は南南東、千駄ヶ崎は南東より少し東、大島は南西の方角。」その正確さに驚く。
「台場を下りて海を渡り、三崎町より彦根藩三崎陣屋前を過ぎ、東岡の和田屋に止宿。三崎原の警衛藩士百二三十人の内、足軽は約四十人、外に小者を併せて五百人位が警衛している。」と陣屋の体制を、村役人が教えている。
6月17日「東岡を出立して原を過ぎ、網代の出崎の古城に登る。ここは三浦同寸の城址で同寸の墓、荒次郎の墳墓がある。」古城とは新井城のことで、伊勢氏(後北条氏)と三浦一族の古戦場である。
「ここまで半里。又、上宮田に出て海沿いを北に向かう。」で三浦編は終わる。
吉田松陰は、この二年後の嘉永6年(1853)、ペリー来航を知って黒船を見分し、下田で密航を企てる。しかし、失敗し番所に自首。そして安政6年(1859)安政の大獄に連座して命を落とす。また、日記の筆者である宮部鼎蔵は、元治元年(1864)尊王攘夷志士として、京都池田屋にて新選組の襲撃を受け、命を落とす。二人の人柄の実直さと力強い行動力には驚くとともに、国防への熱い思いが伝わってくる。
※吉田松陰・宮部鼎蔵の足跡図(房相日記をもとに)
記事提供:みうらガイド協会